にんげんはかんがえる葭である

よしもとみおりのブログ

早く死んでしまいたい(もし毎日演劇がやれないなら)

早く死んでしまいたい、この気持ちとずっとたたかっている。かなりよわいちからであらがっている。

助けてほしいひとに助けてもらえないよしもとみおりは、他のどんなひとが必要だよっていってくれても、わたし自身には必要ない。だから、はやくこの肉体を捨てて、どこか別のところで、別のお母さんのところに生まれて、あかちゃんになって、新しい人生を歩きたいと思ってしまう。今度はもうちょっと痛みの少ない人生だといいなと思う。助けてほしい誰か、なんてそもそも欲しない人生だといいな。

毎日、あからさまに死とたたかう日々になってようやく、「あなたに演劇は必要だから続けなさい」と言ってくれる人たちに会った。病院の先生とか。それでようやく、声に出して、あるいは文字にして、「わたしは演劇が必要だからやってます」と言えるようになった。後ろめたさがなくなった。だから、今が一番演劇に集中しているという感覚がある。演劇をやっているときだけ、死の方向から少しだけ自分が距離をとれるような気がする。演劇は、延命治療に似ている。だから毎日演劇に関わっていたい。

今日は、ひさしぶりに演劇に関わっていない日で、そのせいか発作が出た。月曜日は発作が出やすい。なんとなく、経験則からそう感じる。しかも演劇に関わらない日だ。たぶん、いつもより大きく発作が出やすい。

発作が出ると、目の前がさわがしい色でぬりつぶされて、まわりの音がよく聞こえなくなる。胸を抑えながら薬箱をあさって、頓服の薬を飲んで、それでも効くまでの30分を、涙を流しながら死にむかいそうな体を固く床にへばりつけておいていると、スッと効いてくる瞬間がある。そうすると、まだ痛みはあるけれど、日常に戻れる感じがする。こうやって文章も書ける。お母さんは頓服薬のことを「酔い止め」と言った。たしかに、発作は「船酔い」に似ていると思う。わたしはあんまり車や電車では酔わなくて、酔うと言ったら船だったから、ちょっと前に小豆島で乗った船や、10年ぐらい前にインドネシアで乗った船や、もっと昔に沖縄で乗った船のことを思い出す。たすけてほしいひとと行きたかった琵琶湖の遊覧船のことも、考えてしまう。そしてまた「酔い」がわたしを襲ってくる。

むかしの自分はずいぶん頑張っていたから、むかしの書いた文章を読むと、えらいなあと思う。今のわたしは頑張れないけど、頑張れない様子を、包み隠さずに書いておくことも、きっと「頑張り」に入るから。だからリハビリみたいにこうして書く。

それでも早く死んでしまいたい。もし毎日演劇がやれないなら、たぶんさっさと死ぬ。

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