にんげんはかんがえる葭である

よしもとみおりのブログ

無意識の差別とその再生産(観劇記録)

観劇をしているとよく、差別と向き合っている風の差別を助長する演劇に、出会う。昨日出会ってしまい、ぐったりとしている。劇団名で検索すると褒めたツイートばかりで心配になる。もしもこの作品が好評だったから再演しようと主催者が思ったら?

おそろしいのは、いい作品だったこと。該当シーンまで、今年一番のいい作品になりそうだ!という予感で胸がわくわくしたこと。見どころがあるがゆえに、俳優が真摯であるがゆえに、感動に押し流されて、わたしは差別の再生産に加担してしまいそうになる。

だけどそれじゃあまりにも、この作品が扱うテーマに対して不誠実だ。

だから勇気を出してアンケートに思いを書いた。

以下は、劇団名と作品名を伏せたその転載です。

 

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思わず魅入ってしまう、素晴らしいところの多々ある作品でした。
その上で、お聞きしたいことがあります。
終盤の息子が恋人の情夫を殺そうとに包丁を持って電車に乗るシーンは、小田急線刺傷事件の前に創られたものでしょうか、それともその後に創られたものでしょうか。
この「創られた」というのは脚本だけでなく、演出のことも指しています。

もしも事件後に創られたシーンだとしたら、とても問題があると思いました。

というのも、加害ターゲットを、実際の事件でターゲットにされてしまった「無差別の女性」から、「特定の男性」へと変えているからです。

わたしは、事件のあった日に、東京に居たものです。
終盤のシーンはわたしに小田急線刺傷事件をいやおうなしに彷彿とさせました。
まだ一か月しか経っていない事件を、大阪という別の土地で語ることができるのか?
なぜ当事者でない人間が、こんな短い期間に、被害者が実在する事件について劇場という開かれたスペースで語れると思うのか?
という疑問はあります。ただ、これはわたしの一意見です。

しかし、ターゲットを「無差別の女性」から「特定の男性」へと変えたことは、事件に対する理解が浅いばかりか、ターゲットとされた女性たちへの冒涜、そして差別の助長になっていることをよくご理解いただきたいです

ターゲットを「無差別の女性」から「特定の男性」へと変えたことのなにが問題かというと
「ターゲットが悪いことをしたから狙われた」
「ターゲットに原因があるから結果(攻撃・殺害)が起こった」
という、バイアス(偏見・差別意識)を、観客に対して強化するからです。

このバイアスは公正世界仮説と名づけられており、わたしたちに刷り込まれています。
そのため何か事件が起きた時、特にその対象が社会的マイノリティ(障碍者・女性・子供・他民族)であった時に「被害者に落ち度があったのでは」と考えてしまいます。発言してしまいます。
その結果、被害者は二重・三重に攻撃されダメージを受けることになります。
時には自分で命を絶ってしまうこともあります。
この心理を利用して、社会的マイノリティへ暴行などの加害をし続ける人間もいます。

作中で加害ターゲットを「無差別の女性」から「特定の男性」へと変えたことは、
上記のようなバイアス(偏見・差別意識)を強化し、更なる加害を生むことにつながるのだとをご理解いただきたいです

そして、実際の事件のことをもう少し知っていただきたいです。
小田急線刺傷事件では、女性は、ただ女性であるというだけでターゲットになりました。
これは特殊な例ではなく、他の差別とも共通していることです。
多くの差別では、ターゲットととなってしまった人はただ「その人がその人である」というだけで、ターゲットになり、攻撃されます。
作品で扱っていたろう者への差別もそうではありませんか?

ただ聞こえない・手話という言語をつかう人であるだけで、
主人公の京子は子供の頃、聞こえる人がマジョリティの社会から疎外という攻撃されていました。
国からは手話を禁止され、聞けないものを聞けと教育されます。
そのような社会的方針に順応させようと強迫感から必死になった母親は、厳しすぎるしつけを京子にします。
大人になり、持ち前の明るさでコミュニティになじんでいるように見える彼女ですが、
「規格に合わない人間は必要ない」と言わんばかりの社会の彼女へのあり方が、彼女の心に未来への不安を生んでいます。
未来への不安の正体は、社会からの疎外という名の攻撃、です。
 
だからこそ、夫になるケンが初めて手話をしながら話しかけてきたとき、
聞こえる人(社会的マジョリティ)が聞こえると言う特権を捨てて、
聞こえない人(社会的マイノリティ)の言語を使い、コミュニケーションをはかろうとしてきたことに、
彼女の指先は熱くなったのではでしょうか。
 
京子が置かれていた状況は、ただ「京子が京子である」というだけで、ターゲットになり、攻撃されている状況です。
実際のろう者に対しても同じことが起こっています。そのことを差別だと気づけないまま、社会は動いています。
だからこの作品のように、ろう者の立場・生活・想いを知らせる作品は、とても意義があり、広く世の中に知ってもらいたいと思います。
 
その一方で、まったく同じ差別の構造があるにも関わらず、
「無差別の女性」をターゲットにした実際の事件を「特定の男性」へと変えてしまう改変を、作者はされています。
たとえそのような意識が無かったとしても、意識が無かったことが問題だとわたしは思います。
多くの差別は差別意識のないままにおこなわれるからです。
 
作者は、ろう者への社会からの差別には気づけているのに、ご自分自身の差別意識には気づけなかったのでしょうか。
ご自身のされていることが、差別と加害の再生産になると気づけなかったのでしょうか。
それではあまりにもこの作品に対して、扱っているテーマに対して、不誠実です。

突然、劇場やプロデューサーからこの作品に対して
「登場人物を、ろう者じゃなくしてください。俳優も、ろう者じゃなくしてください。でも手話は使って。ストーリーもこのままで上演します。」と言われたらどうでしょうか。
彼ら・彼女たちから、ろう者という背景を奪うな。ろう者であり、ろう者である人生を歩んできた彼ら・彼女が、実際にこの世界にいる。だからこそこの演劇が生まれたのだ。と、思われるのではないでしょうか。
そう言いたくなるような相手と同じことをされていると、ご理解いただきたいです。

最後になりますが、劇団の今後ますますの発展をお祈りしております。