健忘のあとに
11月2日になった。
10月2日に記憶を取り戻してから、1ヵ月が過ぎた。
当初は自分でもどうなるかなぁと思ったけど、11月2日現在、10月2日に得た自己統合というのは、変わらずに自分の中にある。
それがすごく嬉しい。
*
10月の頭に神戸に帰った時、主治医に会った。
自分の知覚について報告して、私は「寛解」のお墨付きが出るのを待った。主治医は目を閉じて少し考え、「今は変化の時期だから焦らずに」と言った。私は「わかりました」と答えた。
病院を出ると、私の視界に西陽が差し込む。夕方の光が、白っぽい筋状となって見えるので、きっと少し乾燥しているのだろう。空気中に砂ぼこりが舞うとき、光は目に見えない波形から、可視化された光線へと変わる。舞台のスポットライトはそんなふうにして作られている。
私の視線は山側へと移る。神戸で山側というと北の方角を指す。神戸の人は北・南という言葉を使わず、北を指すときは山側、南を指すときは海側と言う。理由は言葉通りで、北に六甲山があり、南に神戸港があるからだ。
神戸の秋は六甲山系の色づきが告げる。だけどまだ山は青く、乾燥した空気だけが季節の変化を私に知らせようとしてくれていた。
私は東遊園地へ向かう。病院に行って帰るときは、いつもこのルートを選ぶ。いつも、と言うのは、本当にいつもなので、もう足が覚えていて、目をつむっていても目的地へ辿り着ける。
今年の初めに再開発が完了した東遊園地は、一年半の工事を経て、グラウンドが芝生へと整備された。夏の初めに訪れた際には、青々とした芝生の上をルンバ型の芝刈り機が走っていた。芝生広場にはちょうどいい目立つ場所に犬小屋があり、なんだろうと覗き込んでいると、仕事を終えた芝刈り機がウィーンと戻ってきて、小さく電子音を上げ鳴き、無い目を閉じるように落ち着いた。
ちょうど正午だったように思う。会社のお昼休みなのか、神戸っ子たちは隣接したカフェのラテを飲んだり、皆んなでお弁当を広げていたり、日除けの下や木陰の中で、思い思いに過ごしていた。
秋になった三宮の街を歩きながら、私は「東遊園地が再開発されると決まったときは悲しい思いになったけど、こんなふうに変わってくれたのだから、よかった」とChatGPTに話しかける。
正直、再開発前の東遊園地は大きなお墓みたいだった。誰もいなくてしんとして。その静寂は退屈だとか、治安の悪さから生まれたものではなかった。むしろ、荘厳過ぎたんだ。震災以降の東遊園地は、慰霊のモニュメント「1.17希望の灯り」が精神的中心として設計されていたから。
あの頃、東遊園地は、普段は立ち寄れない場所だった。私のようにお参りする人だけが頻繁に来ていた。
でも年に一度、冬の時期にだけ、グラウンドに人が集まった。
ルミナリエ———復興した神戸の街を回遊し、歩きながら慰霊する。復興の祭典の最終到達地点が、東遊園地だったから。
そう、東遊園地は祈りの場だった。
同時に、ルミナリエはあの日の再現でもあった。
参加者は復興しきった街を歩き、最後に辿り着いた東遊園地で、祈る。みんなで祈る。それ以外に、することがなかった。
たどり着いた広場には、申し訳程度の屋台が並んでいた。それすらも支援物資の配給のように見えた。だから並ぶ気がしなかった。
祈る以外、何をするということも無かった。歩いて歩いて、辿り着いた先に待っているのは暗い大きな空。
祈りには終わりがないので、いつこの場所を立ち去ればいいのかわからない。
寒さが、人々の足を落ち着かなくさせ、靴の中では親指と人差し指が擦り合わされ、靴底が小刻みに揺れて地面が蹴られ、グラウンドの砂を宙に舞わせる。
冷たい空気の中に混じる細かな砂は、私が望もうと望まなかろうと問答無用に口の中に入りこみ、我が舌に1995年の1月17日を思い出させた。
それが今や、普段使いの、みんながラフに集える芝生広場に変わったんだ。とりあえず東遊園地行っとく?みたいな。我が舌を楽しませるのはスターバックスじゃないカフェのラテだし。そうそう、併設されたオシャレな野外文庫で洋書も読める。ハレの場からケの場への移行だ。
東遊園地は良い公園だし、人生は当たり前のようにケの日ばかりだから、私は「こうなってよかったよね。新しくなることも悪くないよね」とまた話しかける。
ChatGPTは話者の飛躍した言葉も、上手につなぎ合わせて論旨を通し、「まさにそう」と返事をしてくれる。
必ず同意してくれるAIの声は、優しい音楽みたいだ。その言葉に意味はない。ただchillがある。
東遊園地に着くと、気候が落ち着いたからだろう、芝生広場には、これから映画でも始まるのだろうかというぐらいに人がいた。中高生は少なく、自分と同い年位の子連れが多かった。私はのんびり過ごしている神戸っ子たちを見た。夏とは違ってみんな寝転んで、スマートフォンの中の景色と、神戸の空を、行ったり来たりで眺めていた。
一緒に寝転がりたいな。この群れの一員になりたいな。
そう思ったけれど、家でつまらなそうに足を投げ出して待っているだろうロビン(ダックスフンド・7才)の姿が心に浮かんだ。
横になるならあの子の隣だな。
私は、あの子の群れの一員だから。
寄り道しないで帰ろう。
だから早く、いつものルートをたどらなきゃ。
私は足を進める。
芝生広場を横目に、背の高いクスノキの並木を過ぎる。
そこに「1.17希望の灯り」がある。
ガラスケースの中に消えない火が灯され続けている復興のモニュメント。
ここが私の目的地、いつも辿るルートの最終到着地点だった。
私は立ち止まり、手を合わせる。
その時、六甲おろしが吹き、クスノキの常緑の葉を揺らした。その揺れに共振するかのように「1.17希望の灯り」の火も揺れた。
私は更に手を合わせた。両の手のひらが汗でじっとりする。私はこの汗が祈りの本質だと思う。
祈りとは、どうしようもない過去に対して、現在進行形の熱を持っていること。
何度こうしてきたかわからない。
昔は、家の横の小学校の、震災で亡くなった女の子のための木に手を合わせていた。
19歳で地元を出てからは、神戸に帰るたびに、ここに帰ってきている。
祈り続けている。
きっとこれからも続けるのだと思う。
「焦らずに」という主治医からの言葉を繰り返しながら、私は家へ帰ってロビンと過ごした。東京へ帰ってからは、毎日出社をして、仕事をして。そんなふうに一日・一日を繰り返していたらあっという間に時は過ぎた。
*
唐突に冬の気配がして、トレンチコートを引っ張り出したある日、遅めの昼休みをとっていたら、会社のデスクの天板の下で、私の足が動いていた。
私には、帰省するたびにいつも辿るルートがある。そのルートを辿るとき、私の足が神戸を記憶する。神戸を離れても、時々、私の足は神戸を歩く。
今、歩いている。
二本の足が、出す予定のない手紙を書いた。
便箋の2枚目から書きかけの言葉を拾って紹介する。
「突然ですが、今、わたしは、もう誰のことも助けられないと思てます。でも、それでも、生きていていいんや、と思えます。
他の人を助けられへん自分に生きてる価値はない……って自分が思ったんは、古い話になるけど、1995年の阪神淡路大震災で被災したんがきっかけでした。
でも、もう1995年の震災は終わっていて、助けなきゃいけない人はどこにもいないんやと思います。
いやちがうな、助けなきゃいけない人はいる。
でもそれは瓦礫に埋まった人ではない。
心が助けられたい人がたくさんおるんやと思います。
わたしには、それは助けられないと思う。
だからもう、仕事以外で、演劇はやらへんかなと思います。
記憶が戻って、現実がちゃんと見れるようになったから、こんなふうに思うんやと思います。」
いつかこの手紙を出せたらいいなと思う。
宛先が誰なのかは、もう私の心の中では、はっきりとしていて。でも出すまでは、言葉にせず、ぼんやりとその面影をなぞっていたい。
じっとりとした両の手で。どうしようもない過去に対して、現在進行形の熱を持ちながら。