にんげんはかんがえる葭である

よしもとみおりのブログ

つまんない話なんか書きたくない(全員『アンナ・カレーニナ』を読め)

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つまんない話なんか書きたくない。見たことのある話も書きたくない。わたしはそういうの欲しくない。人生を変えるような話にしか出会いたくない。誰のためでもないわたしのために。書き手がそう思ってなきゃ、書き手にとって意義ある執筆活動にはならない。

ということで(?)絶不調である。

気持ちが高ぶっていて。だから言葉はポンポンポンと出てくるのだが、それに見合った、ううん、正しくは「全然違った」ストーリーのアイディアが出てこない。

恋愛の話をただ恋愛の話ベースにしてやってもつまんないでしょ、という考えが自分の中にあって。だから恋愛の話をしたいなら、恋愛と全然関係ない、それだけで何通りものお話ができそうなシチュエーションを考えなきゃいけないんだよね。

頭の中には「金田一少年の事件簿」の犯人たちが主役の方のギャグマンガが渦巻いてる。金田一少年が華麗に事件を解決するために、「やることが多い……!」と汗だくになりながらトリックを成立させるために駆け回る犯人たち。わたしもその犯人の側だ。主人公が華麗に事件を解決するために。つまり、あたかもそうなる必然があったと読者に感じさせながら物語の結末へ行きつくこと。そのために駆けずり回っている。やることが多い……やることが多い……!!!

トルストイの『アンナ・カレーニナ』を今さらながら読んでいる。めちゃくちゃにおもしろい。めちゃくちゃに、おもしろい。(大事なことだから二回言った)むかし見た映画版『アンナ・カレーニナ』が暗くて重くてつまんなかったせいで、長いあいだトルストイを敬遠していた。それだから余計に、予想外のおもしろさに頭がガーンとなった。もうめちゃくちゃにおもしろいのだ。語り始めると長くなりそうなのでこれもまた別で記事にしたいけど、とりあえず言えるのは、『アンナ・カレーニナ』はただのロシア貴族の不倫の話じゃないってこと。それは『アンナ・カレーニナ』の中のほんの一部のエピソードに過ぎない。身分問わない大量の登場人物と、厳しくも雄大な自然が織りなす、帝政ロシア末期を舞台にした社会派群像劇。それが『アンナ・カレーニナ』なのだ。そこから「ロシア貴族の不倫」だけを抽出して映画なり舞台なりをつくると、途端に陳腐でつまらないものになる。すばらしいものの、とりわけ胸を高鳴らせる部分だけを抜き取って再現しても、それはさしてすばらしくならない。

ちなみに光文社のバージョンを読んでいる。読み切りたいような読み切りたくないような気持ちでゆっくり読んでいる。というのも前に『嵐が丘』を読んだ時、そのあまりのおもしろさに2日で読み切ってしまい、「こんなにおもしろいのにもう終わっちゃったよエーーーン!!!」と泣いたからである。マジで泣いた。だってエミリー・ブロンテの書いた小説は『嵐が丘』一作だけだからだ。エミリー・ブロンテ先生に次回作を書かせなかった19世紀のイギリス社会が憎い!!!

それにくらべると当然のことながらロシア人貴族、しかも伯爵、しかも(もっとも重要なことだが)男性であるトルストイ先生の著作は山のようにあるので、わたしは比較的安心して『アンナ・カレーニナ』を読んでいる。それでも物語が終わってしまうのが惜しいのでゆっくりゆっくり読むのだ。

ちなみにわたしは今のところリョーヴィンが一番好きです。リョーヴィンかわいいよ、リョーヴィン……。器用に生きれないところが好き。

とか書いてたらいつのまにか1500字近くになっていた。こんなふうに楽しくすらすら物語が書けたらいいのになあ。今日は一日家にいてこもる予定だ。コツコツとがんばりたい。コツコツコツコツ。

 

それじゃあまたね。今日も君にとって良い日でありますように。

 

葭本メアリ @shoujo_toshi

 

 

 

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