にんげんはかんがえる葭である

よしもとみおりのブログ

こんな時だから恋と愛の話をしよう

文章を書いている。完成への道のりは遠い。いつも字数にしてみればそうたいしたことない分量を書いているので、え!そんなに時間がかかるの?と思われてしまいそうだけど、短いものには短いもののむつかしさがあるのだ。短歌とか、和歌とか、ラップとか、急に書けって言われても書けないでしょ!と脳内の誰かに語りかける。だから大丈夫なんだよ、ゆっくり気長にやろう、と言ってやる、自分に。

去年の10月から自分に大きな変化が起こった。その変化については詳しくは後日じっくり語りたい。ともあれその変化は、「よしもとみおりとして生きる一人の26歳・女性・人間」に対してだけではなく、「深夜にひたすらに物語を書く一人のオタク」に対しても大きな影響を及ぼした。

書くものが変わった

わたしは演劇ではくりかえし「ヘテロセクシャルの女性が持つ同性への特別な感情」を書いてきた。
だいたいはこうだ、主役は女優Aが演じる。その相手役には男性俳優Aをあてがう。しかし同時に、女優Aには別に女優Bという相手役がいる。

画像1

だいたいその女優Bが演じる女は死んでたり、もう二度と会えなかったり、相反してたり、へだたりがある。
「彼女」と「彼女」のへだたりを埋めていく過程で、相手役の男優Aが頑張ったり頑張らなかったり巻き込まれたり死んだり生きたりするのがわたしの書く演劇のだいたいのフォーマットである。
それが変わってしまった。
男が登場しなくなってしまったのである。
それは一つに、演劇の戯曲を離れ、小説を書き始めたことに理由があると思う。
演劇というのは戯曲(脚本)が完成した後からが本番だ。30日ほどの過酷な稽古が始まる。その期間を楽しく乗り切り、お互いがより成長していくために座組があると思っている。
自分の意識の中に信頼している男性俳優がいると、必ず彼らと作品を創りたいという気持ちから創作意欲がスタートすることが多い。そうなると、わたしは、彼らと女性俳優の芝居を見たくなる。元から、舞台の上で見た官能的な男女の和合に惹かれて演劇をつくってきたところがあるので、では今回の話も男女が絡み合うシーンをいれましょう。となる。
小説はそうではない。自分の頭の中だけで書くし、書いた後に稽古はない。ということで、男女である必要が霧散してしまった。
しかし、それだけではない気がする。
やっぱり去年の大きな変化が、「二人のわたし」に作用しているような気がする。

 二人のわたしとは

わたしの中には二人のわたしがいる。いや本当はもっとたくさんのわたしがいるのだが、とりあえず今回は二人としておく。
二人のわたし。それは、「恋愛をする主体」のわたしと、「頭の中で考えた恋愛モノを書くオタク」のわたしである。
両者は似ているようで全然違う。前者のわたしが「好き……」とうっとりするようなできごとと、後者のわたしが「ウッ…尊い……」と涙するできごとは、同じ種類じゃないことのほうが多い。
前者のわたしは好きな人に手をつないでもらうだけで嬉しくなってしまうし、数か月それだけで生きていけるが、オタクのわたしは「そんな生ぬるいもんお呼びじゃねんだよ!」と原稿に怒鳴ってしまうだろう。
というかだいたいわたしが書く演劇で、手をつないでしあわせ♡みたいな描写があったらそのあとその相手は死ぬし、ヒロインは地獄に落とされるだろう。あたたかなしあわせなどフラグでしかない。
また、オタクのわたしは完全に神様目線で人間関係のごちゃつきを書いている。物語における絶対強者であるときのわたしは、まるで恋愛や人間関係の達人のように、すばらしく的確な見解がぽんぽんと出てくる。
が、恋愛する主体のわたしはそんなことひとつもわからない。どんなに陳腐な出来事も、自分のことになると痛いほど光るのだ。

去年の変化は「恋愛をする主体」のわたしにとって大きな、抜本的な変化だった。単純に、誰かと別れたとか振られたとかそういうところじゃない、変化だった。自分の人生の解釈がぐるぐると変わるような変化だった。
その変化があまりにも大きかったので、当然のように「頭の中で考えた恋愛モノを書くオタク」のわたしにも信じられないぐらいの影響を及ぼしてしまったのだ。
だから、男女の恋物語が書けなくなってしまった。

だけど、最近また変わってきた。

 結論、男女とは。

変化が起こったのが10月。そこから数か月、腐女子が言うところの「壁のシミ」として男女のことを考えまくった。結果、男と女って人間と人間だなというところに落ち着いた。
いろんなことはなどはひとまずおいておいて、人間と人間であることには間違いない、そう思うようになった。

わたしは女だけれど(そして身体が女であることに疑問を抱いたことのない女だけれど)ちょっとばかし違う肉体を持った男も、人間なのだ。
「わたしだって泣くんだよ、わたしだって笑うの」「(女の子は)お砂糖とスパイスと何かすてきなもので、できてるわけないの、血と肉だけなの」とアーバンギャルドは歌っていた。
女は男と同じ≪人間≫であるということを理解することが、現在の男性側の課題なのだ、としたら、わたしは同じことを自分にも課したいと思う。
女が痛いものは男も痛い、女が悲しいことは男も悲しい。女がめんどくさいことは男もめんどくさく、女が嘘をつくことは男も嘘をつく。
だから恐れるな、と自分に言いたい。男とは、極論全員わたしと同じ女の子なのだ。そう思うと、どんなに男の子がめんどくさくても、わがままでも、意味が分からなくても、そんなに怖くない気がしてくる。だって人間だもの。

この「男」と区分された人間の中に「暴力をふるう人間」や「性犯罪者」が入らないように、わたしが、あなたが社会全体が注意深く監視をしながら、お互いにパートナーシップを結んでいく。そんな未来を夢見ている。

書くものに男が登場しなくなってしまったと言ったけれど…

1月ごろにこう記していた。

「文章でやるならやっぱり女と女のことしか書けない気がしてきた。どうも文章を書いていると、いったいどうやったら男女が出合い、愛し合うのか、ちっとも浮かんでこないのだ。女と女なら無数の組み合わせが思い付くのに……。ま、それでいいのかもしれない。見るのは女と男が好きだから、演劇だけでは男と女を絡み合わせつつ、文章では女と女のことを書いていこうと思う。」

だけど今は、男女のパートナシップを取り戻す。そうすれば、物語にまた男性が登場するんじゃないかな?と考えている。やっぱりわたしは男女の絡み合いが見たいんじゃい。恋と愛を見たいし、感じたいんじゃい。

こんな時だから恋と愛の話をしよう。本気でそう思っているの。

この文章はすべてわたしに向けたもので、他の人が読んだら抜け落ちていたり、全然意味が分からない部分もあると思う。だけどそれでいいと思っている。これは種のようなものだから。この言葉たちをブラッシュアップして物語にできるよう、明日も頑張る。ひたすらに机に向かう。だから君も明日も元気でいてね。大好きだよ。おやすみ。