にんげんはかんがえる葭である

よしもとみおりのブログ

あるアクシデントとパニック、いくつかのメモ

あたらしいノートを買った。ノートを買うとふしぎと気持ちに区切りがつく。なんでもない日が、何かを新しく始める日になる。

と、ここまで書いてショックなことが起こってしまった。気持ちがそちらのほうへ持っていかれる。ダメダメ、もっといつものわたしの感情になって、と、嫌いな人のSNSを検索して見る。フォローはしていない。ふだん憎んでいるものこそが、わたしのイレギュラーをレギュラーに変えてくれる。このシチュエーション、すごくおもしろいから、今度ちゃんと書いてみたい。

恋しい人って幽体みたいになる。その形は無くて、いつも心の中をふよふよとただよっている。実際のその人とも乖離がある。

好きな人と、愛してる人と、恋しい人はちがう。たぶんきっと、好きな人が恋しい人になったら別れの時だ。どうしようもなく恋しくさせるぐらいに、その人はあなたに冷たいのだから。それでもいい、が愛なのかもしれない。ただし、健康的ではない愛だ。

おなかについた浮き輪みたいな肉ってどうしたら取れるのかなあ。退院した後、ご飯を食べるのもしんどい時期を超えたとき、うれしくて「これからは好きなだけ食べよう!」と思った。で、好きなだけ食べて、現在体重はプラス4キロである。おかしい。いやおかしくない!当然の結果だ!だから怖い。ということでまたダイエットである。

とかなんか考えながら文章にしていると、ショックだったことがだんだんと薄れてくる。26歳から27歳にかけては、自分で自分をケアすることがうまくなった一年間だったなあと思う。絶対に自分で自分をコントロールする!!!と思ってた頃は、その不可能さがつらくて仕方なかった。だけどこの一年で、というか半年、あるいは数か月で、完璧なコントロールなんてできないからしようと思わなくていいんだ、と思えるようになった。むしろ必要なのは、パニックを起こして回路がフリーズしている自分を、ときほぐすようにケアすることなんだ、って。そう考えるようになってから、わたしはすごく楽だ。気持ちも体も楽になったのだ。

心が完全に落ち着いてきた、もう大丈夫だと思う。

誰でも書けると馬鹿にされがちな言葉であるが、誰でも書けることをあぐらに誰も書かないのも言葉である。社会的には軽視されがちな言語化能力ではあるが、個人的には気に入っているし、もっといろんな人が自分の気持ちを言葉にしてほしいなと思う(後略)

気持ちを言葉にしようという話 - 新薬史観 より

 この言葉にはげまされた。わたしにしか書けないこと、があるのかはわからないけれど、わたしにしか書けない言葉、というかわたしぐらいしか書かない言葉、がきっとある。自分を信じよう、がんばろう。