にんげんはかんがえる葭である

よしもとみおりのブログ

マイブーム・ていねいなせいかつ

唾棄していた「ていねいなせいかつ」がマイブームである。たぶん結局のところ、唾棄するほどに、憧れていたのだろうと思う。お盆休みも重なって、家からほとんど出ずに、掃除をしたり、洗濯をしたり、料理をしたり、茶を淹れてみたり、誰にも見せない日記帳(本来日記とはそういうものだが)につらつらと考えていることをしたため、そしてほんの少し仕事をしている。今、すごく楽しい。この楽しいは、confortableの意味が近い。

個人的にちょっと大きな病気(世間的に見たら一過性の体調不良)をするたびに、自分の内面が整理されていく。世界にはわたしだけがいる、という言葉にすると傲慢な感覚が身を包み、結果的に、対人の態度としてはとても謙虚になる。世界にわたししかいないとするなら、他人をどうこうしようなんて気持ちは無くなる。わたしが変われば世界が変わるからである。世界はわたし以外の人間でできている、そう思っているからこそ、他人に変わってもらいたくて仕方ないのだ。そして他人が変わってくれるためならなんだってする、という切迫感が、常人にはできない努力をさせる。しかしその努力が実を結ぶことは無い。何かを成し遂げても、目的の先に「誰かの変化」があると、成し遂げたことはさして大したことじゃなく感じられる。そして悲しいかな、「誰かが変わってくれること」は、けして自分の努力だけで到達できる目標値ではないのだ。

で、上記のことがらから解き放たれた今、とても生きるのが楽だ。7月のあたまあたり、苦しくて仕方なかった人間関係を捨てたらとても元気になった。その直後、入院をしたせいか、さらに肉体と精神が研ぎ澄まされた感がある。

なんだかスピリチュアルなことを書いているな~と自分でぞっとしたりもするが、また人と深くかかわるようになったらこういったことを忘れてしまうに違いないから、今のうちに書き留めておこうと思う。

ていねいなせいかつとは結局、自分本位で生きることなのだろう。自分のことだけに集中する、するととても毎日がやわらかく優しくなる。本当は自分は自分ひとりで生きているわけではなく、息吸って吐いて食事して眠ってを繰り返しているだけで、誰かを搾取したり、権力に搾取されたりしているのだが、そんなことを忘れてぼんやりできる。特に、自分が誰かに支配されているという、きわめて都合の悪いことを忘れられる。自分自身がこうなってみてはじめて、糸井重里氏がなぜああいう態度を一貫してとれるのかが、わかった気がした。