にんげんはかんがえる葭である

よしもとみおりのブログ

舞台芸術の対価に金銭を払えない時代に(きわめてこじんてきなにっき)

誰かに連絡をしたい、でも連絡する勇気が無い。

一人で過ごしていると世界のアップデートの場がツイッターぐらいしかない。

東京で過ごしているときは世界のアップデートは毎日あった。オフラインのアップデートはもちろん、オンラインのアップデートが実際の生活に密接していた。オンラインに書かれたことは、めぐりめぐってすごいスピードで現実の世界を変えていった。オンラインの変化は実生活の変化だった。この変化というやつ、アップデートというやつが、あまりに多くて倒れちゃいそうなぐらいの生活だった。

それに比べて今の生活は「凪」だ。無風。でも、アップデートがない生活なのは、けして今住んでいる土地が田舎だから、という理由だけではないと思う。おそらく、今わたしが、参加コミュニティのない場所で生きているからだ。

兵庫県は、わたしにとって生まれた育っただけの土地だ。本気でそう思う。思い入れが無いわけではない、むしろ強くある。土地のそこかしこに思い出が横たわっている。けれど、居場所ではない。だからどこにも属していないし、どこにいても安心感は無い。

毎日、カフェの店員さん、スポーツジムのトレーナーさん、犬の散歩で出会う犬飼いの皆さんと、あいさつと少しのやりとりだけをして生きている。

コミュニティのない生活はすばらしく気楽。そして退屈。じゃあコミュニティのある生活はどうだったのかというと、ものすごくしんどく、孤独、だった。

わたしはコミュニティの中に居ればいるほど孤独は強まっていくタイプだった。だれかと一緒にいると、目の前の人がわたしとおんなじ感情を持っていないことがつらかった。おんなじ感情、おんなじ感じ方をしてくれる人が、世の中のどこかにいるはずだ。そう思っていたから、たくさんの人と関わったけれど、まあ冷静に考えてそんなことはありえないのだった。

白か黒かでしか判断や行動ができないわたしは、コミュニティにどっぷりつかるか、まったく必要としないかしか選べない。そんな自分を生きづらいな~変えたいな~とも思わないから、いまの参加コミュニティゼロ生活のほうが合っているなと思う。この生活のデメリットは、自分で何かを産み出そうとしないと、毎日がとても退屈なだけ、だから。

ただ、思うに、どれだけ生活が苦しかろうとコミュニティがあればその苦しみを忘れてしまう。人間ってそういうものなのかもしれない。経済的な貧困も、日常に居場所さえあれば忘れてしまう。貧乏でもいいや、だって此処にわたしの居場所があるんだから。てな感じで。

だから(突然話は飛ぶ)、今、舞台芸術をやってきた人たちは誰もかれも、コミュニティをつくろうと躍起になっているんだなあと腑に落ちた。特に、20世紀から芸術をやってきた人たちや、団体は。

彼らは、コミュニティをつくるためのツールとして舞台芸術を使おうとしている。そういうふうに行政に売り込みをする。舞台芸術を使うと希薄だった地域コミュニティが復活し、強固になりますよ、と。

でも本当のところは、芸術的な活動の対価に満足な金銭を払えない時代だからじゃないのかな?対価に金銭を払えないから、コミュニティの提供で対価を払おうとしているんじゃない?

舞台芸術を学ぶ上で、必要不可欠だと言われるコミュニティの創成にずっと不信感を持っていた。なぜ、舞台芸術とコミュニティがつながるのか理解できなかった。でも、無償の労働力が無ければ成り立たない(仕組みのまま21世紀に突入してしまった)舞台芸術には、無償の労働を人間にさせるだけの装置をつくらなくちゃいけなかったんだな。その装置として選ばれたのがきっと、コミュニティだったんだろう。

でも、それって本当に可能なのかな?と思う。20世紀から舞台芸術をやってきた人たちは、本当にコミュニティがあるからって理由だけで舞台芸術を続けてきたの?そうじゃないんじゃない?舞台芸術そのものに魅入られたから続けてきたのでは?(そしてそれにそれなりの対価が与えられるチャンスがあったからじゃ?)

もう舞台芸術が、舞台芸術そのものとして求められてる時代はとっくの昔に終わっちゃったのかな。と悲しくなったりするけれど、んなわけないと信じて頑張る。コミュニティに属さないまま頑張る。

あの倒れちゃうような生活をもう一度やってくださいと言われても絶対にやれない。でも、いつかまたやれたらなと心のどこかで期待している。