にんげんはかんがえる葭である

よしもとみおりのブログ

クラウドファンディング/演劇のこれからと、すべての女優と、あなたとわたしのために。

 


取材を受けました。

すっごく楽しい取材でした。

こんなに自分のことを抑えずに、大好きな演劇のことを話したのもはじめてだし。

ステキな写真を撮ってもらえたし。

 


ちなみにステキっていうのは、見た人 全員に「自分ノリノリやん!」って言われるような、自分のことを何一つ隠していない、ニュートラルな状態でカメラの前に立てた状態のこと。

それをわたしはステキと表現しています。

 


実は、そんなことは初めてでした。

今までも、瞬間・瞬間はあったけど、取材時間を通してずっとは、はじめて。

今までで一番、自分自身の態度に納得の行った、楽しい撮影でした。

 


今月のなかごろには届けられるかな?

広く読める媒体なので、ぜひ楽しみにしていてください。

わたしのことを知っている方にも、知らない方にも、届けられるといいなと思います。

 


 


その取材で色々お話しさせていただいて。

色々というのは具体的にいうと、一年前の『光の祭典』のこと、その前の『聖女』のこと、このあいだやった『向井坂良い子と長い呪いの歌』のこと、劇団のこと、演劇をはじめた理由、続けている理由、やりたいこと…。

 


本当にいろんなことを喋ったのだけど、わたしが演劇をはじめたきっかけだけ、今、話してしまうと、

 


それは、9才の頃、舞台の上に、

何よりも光り輝く美しい女を見たからでした。

 


わたしが演劇を続ける、たくさんの理由のうちの1つは、脳裏に残ったその女をもう一度とらえるため、です。

 


演劇を観る人、やる人は、きっとそれぞれ、演劇にとりつかれた要素があると思います。

脚本、俳優、美術、照明、音楽…だけどわたしはダントツ、女優なのでした。

 


女優、女優、女優。

 


だから、私は、少女都市という、ザ!ガーリー!な名前の劇団をつくり(本当は由来は60年代を代表する劇作家・唐十郎『少女都市からの呼び声』からきているので全然ガーリーではないのだが)

 


女・女って言い過ぎやで、と言いたくなるような劇団紹介を書き、

次世代応援企画 break a leg少女都市 『光の祭典』平成30年6月1日(金)~3日(日) | AI・HALL(伊丹市立演劇ホール)

 


男優がめちゃくちゃ苦労するような男性を書いてしまい(これについては、今後もっと勉強してもっと地に足のついた男性を書きたい)

 


これからもきっと、女優のための演劇を書き続けてゆく。

 


 

 さて、では

 

「女優のための演劇」

 


ってなにかというと、

 


わたしにとっては、

 


いろ~~んな種類の女が出てくる演劇!

 


です!

 

 

 

いろ~~んなタイプの女。

正確には、いろ~~~んなタイプの若い女。

 

 

 

若い女、と言ったのは、これはまだわたしが、「若い女」という枠におさめられてしまう年齢だからです。

 

 

 

 


「若い女」って、どんなものだと思います?

 


自分のことを過信していて、泣き虫で、怒りっぽくて、それなりにみな可愛くて、消費することが好きで、世の中のことをなにも知らなくて、美しい男が好きで、恋がしたい。

 

 

 

ほんと?

 


じゃあこれに当てはまらない若い女は、若い女ではないの?

 


もしくは、これに当てはまる若い女は、皆、同じものなの?

 


わたしは強く、疑問に思います。

 

 

 

「量産型」や「コピー」という形容詞があります。

若い女に無遠慮に向けられる言葉です。

 


〇〇が好きなの?

なるほどね! or 変わってるね!

でも君のその趣味はホンモノ?

彼氏 or 親 or メディア or etc...の影響じゃないの?

君は本当に、〇〇が好きなの?

ならその証拠を見せてみてよ!

(見せるころにはその相手はいない or けして目を合わせない)

 


好きなものを好きというだけでどうして他人からまがいもの扱いされなくてはいけないのだろう。

 


この感覚を、上に書いた「若い女」に当てはまる人も、当てはまらない人も、かつて当てはまった人も、かつて当てはまらなかった人も、きっと感じたことがあるのではないでしょうか。

 


本当は自分らしさなど、自分自身でしか決められないというのにね。

 


 


人間の半分は、女で、

そのまた比率を見ると、

だいたい30%ぐらいが、若い女。

 

 

 

その中には、意地が悪いやつもいれば、ぼんやりしてるやつもいて、気が強いやつもいれば、いつも誰かの言うことを聞いてしまうやつもいる。

 


もしくは、その相反する部分が、一人の女の中に、相反せずに存在していることもある。

 

 

 

1つの言葉で片付けられない。

だって一人一人違う人間だし。

 

 


この当たり前のことは、よく舞台の上で無視される。

 

 

 

さて、演劇の話です。

演劇には、「若い女」という役があります。

正しくは役職があります。

 


彼女たちはいつでも、自分のことを過信していて(そのため常々、正論を語る)(その時代の正しいとされる善のメタファーとして機能する)、泣き虫で怒りっぽくて(感情に素直で屈託無い)、それなりにみな可愛くて(普通、という設定でも、美しい女優が演じる)(同然可愛い)、世の中のことをなにも知らなくて(だからこそ善のメタファーとして機能する)、恋がしたい(誰かのことを愛していることが物語をすすめていく)。

 


消費が好きなこと、美しい男が好きなこと以外は、現実の若い女が求められている像を、「若い女」という役は演じる。

 

 


この「若い女」は、「ヒロイン」という名前で呼ばれます。

 


 


このことは非常に重い事実だとわたしは思っています。

 

 

なぜなら、「ヒロイン」というのは、台本の登場人物表の2番目に記載される、芸歴書(俳優の履歴書)にも記載できる、主演を除けば、女優が舞台の上で就ける役職のトップだからです。

それが「ヒロイン」だからです。

 

そしてそれは、どれだけキャリアを重ねても、いや重ねるからこそ、手に入らなくなる役職でもあります。


若く美しくなければ
もしくは、若く美しくあり続けなければ。

 

 

21歳の頃、私はそれが苦しかったです。

 

だって、生きているのだから、人は年をとる。

生きているのだから、人と違う。

でも、そんな枠にはめられたキャラクターを演じることが女優の就ける最上級の役職なら、女優として生きる意味って、なにがあるのだろう?

 

この世の中には、多種多様な面白い女がいて、面白い女優がいる。

それを伝えたい。

 

「若い女」らしくなくても、「若い女」じゃなくても、「若い女」という枠に当てはまらなくたって、全然、君は面白いよ。

君は、女優だよ。

 

 

そう思って22歳の時に書いたのが、一本目の『聖女』でした。

 

そして24歳の時に書き、6月に上演する『光の祭典』も、およそ「若い女」らしくない女たちのオンパレードです。

 

camp-fire.jp

 

このたび、その上演に向けて、クラウドファンディングをおこなうこととなりました。

「光の祭典」アイホール公演を成功させ、東京公演を計画するためのクラウドファンディングです。

 

「光の祭典」は、2歳の頃に阪神・淡路大震災を被災した私にとって、モニュメント的な作品です。そして #me too が高まる今だからこそ、見ていただきたい作品になっています。この作品は、体験を共有する経験を、観客にもたらします。年齢を問わず、傷ついたすべての方、葭本未織の世界が必要な方に見て欲しいと思っています。(本文より)

 

多種多様な女性を、多種多様な女優とともに、真正面から描きます。

もしかすると、恐ろしいと思うかもしれない。恐怖を感じるかもしれない。

けれど、舞台の上の女優の姿は、今まで「ヒロイン」という枠ではとらえきれなかった、弱さも醜さも渾然となった美しい光となって、あなたの瞳に届きます。

 

それは、「ヒロイン」という枠、「若い女」という枠に押し込められてきた女優を解放し、もしかすると、あなたとわたしをも解き放つかもしれない。

 

それは、女優が演出家に隷属し、演出家に暴力を受けることを甘んじる機能として使われてしまっている「演劇」を、救い出すことになるかもしれない。

 

この演劇は、きっと社会を変えられる。

 

ともに体験してくださいと、

心をこめて、おねがいをします。

 

 

この冬の終わり、それは光の祭典である。太陽は森の奥まで照らす。木々はくっきり陰影をつくり、小川がきらきら光っている。空の青さが木々の股の間からまぶしそうだ。はるか遠くのものは金色の霧のなかに消え、太陽が眩い。そよ風が身にしみる。なにか厳しいものがある。まだ春ではない。(エミール=オーギュスト・シャルティエ)

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よしもと みおり

2018.5.4