にんげんはかんがえる葭である

よしもとみおりのブログ

21歳の下書きたち

高校生の頃から憧れていた批評雑誌に劇評が載った。自分へのご褒美に渋谷で油そばを食べ終わったタイミングで、「金曜日、撮影で」と言われる。

浴衣が着れる。下駄を用意しなきゃ。わたしの足は22cmで、人よりも小さいから、自分で選ばなきゃ歩けなくなっちゃうし。せっかくだし髪の毛染めたいな。明日は夜、観劇だし、いつにしよう。顔はあと3日で小さくなるのかな。胃を縮めなきゃ。いや最悪顔だけでいいのか。足首と手首が華奢なのが自分の体の中で好きなところだな。わたし、まあ、顔は可愛いし。絶世の美女じゃないけど、可愛いし。手入れしなかった時を除いて、顔で差別されたことはないと思う。そりゃ絶世の美女と並んだ時は別だけど。まあとにかくだから、いつも通り、ニコニコしてればいいなって。いつも通りを、自信を持ってできるように、準備しなきゃなって。

「撮影する方」を主にするわたしにとって、「撮影される方」と言うのは、いつになっても、ドキドキして、特別な体験だ。わたしはいつだって選ばれない。そう言う気持ちが子供の頃から強くあって、それが作品を書く一つの原動力になってる。わたしは世界から認知されていない。見られていない。けれど、いや、だからこそ、カメラで撮られている時、ピントがわたしに合った時、それが何度目だって、しみじみと喜びが体を駆け巡って。
「わたし、生きてる」と思う。

幸せな生活、だ。今の生活のことだ。「生活」と「だ」の間に入った「、」に含みとか悪い意味はなくて。言うならば「感慨」の「、」です。

21歳のわたしに見せてあげたいな。毎日歳を取りたくなくて泣いてたあの女の子に見せてあげたいな。

昨日、「一晩だけなら、タバコを吸う男がいい。キャスターの香り」と、書いたメモがメールの下書きから発掘された。わたしはよくgmailの下書きに言葉を放り投げる。意識的にそう使うようになったのは、CIAの不倫カップルがお互いの家族にバレないように、共通のgmailアカウントを作って、下書きメールを使ってやりとりしてたってニュースを聞いてからだ。このチャットの時代に、時間を開けて交互に更新しなければ相手の言葉がやってこないって、まるで手紙だな。そういった秘密が二人の中をくすぐっちゃったんだろうな。簡単な言葉でまとめてしまうと、恋とか呼ばれる一種の病状があって。そういったことから離れて久しいわたしは、CIAの二人の犠牲の多すぎるロマンスの「やり方」だけを一人で続けている。

「一晩だけなら、」なんて、さぞかしモテたかのような文章を書いたのは、たぶん21歳ぐらいの時のだ。今じゃちっとも思わないなあ、若いなあと笑って、本当にそうかな、とアイスコーヒーを飲んだ。コーヒーが飲めるようになったのも21の時だった。

あの頃のわたしは、胸まである黒髪で。乾燥して広がりやすい黒髪で。それをオイルでベトベトにして、気合が入った日はアイロンを当てて、何もない日は鳥の巣みたいにして。大切な日は、背中がハート形に小さく空いたギンガムチェックの水色のノースリーブのワンピースを着ていた。あれはもう捨ててしまった。あの頃の自分が嫌だった自分がいたのだ。今はもう、そんな気持ちを持っていた自分のことすら、若いなあ、なんて俯瞰したふりをしてしまう。

21歳の未織「今まで生きてきて、ずっと「今が一番最高!」だったのに、あたしこれから歳をとる。これまでは、年齢(とし)を重ねれば重ねるほど美しくなっていったあたしの見た目。だけどもう21歳で。つまり、ここからどんどん衰えてくってことでしょ。この顔だって、きっと毛穴は開くし、シミができるようになる。つまり、つまりね、今が最高で、どん詰まり!あたしみたいな、ちょっと可愛いことしか能がない女が、これから良くなることは一つもない!」

あの頃の想いを戯曲にするならこんな感じかなと思って書いて、ため息が出るぐらいしみじみと感じてしまった。やっぱりわたし、話し言葉を書いている時が一番楽しいなあ。わたしが戯曲で出来て、小説で出来ないのは、「行間を読ませる文章を書く」ことだ。言葉の纏う空気感を表現出来るか、出来ないかだ。戯曲では、人物はただ人物として存在して、その在り方を説明しなくてもいい。わたしが書いた「21歳の未織」が喋るだろう言葉を元に、読み手は、俳優は、演出家は、「21歳の未織」を創造する。それは一人一人異なる像だ。自分の記憶と経験を、言葉と結びつけて生まれる、その人だけの「21歳の未織」だ。
いっそカギカッコの押収だけの小説とか許されないかな、と思う。けれど、でもね、一度は習得してみたい、いわゆる小説の書き方を。そのあと、どんな技法でやりたいのか選びとればいいんだから。わたし、出来ないことを出来るようになりたいと思っている。わたし、その状態のわたしが好きだ。だから今、こうして文章を打ってる。

21歳のわたしにあって25歳のわたしに無いものを考えたけれど、あまりなかった。肉体の健康ぐらいしか思いつかなかった。それも今の方がよっぽどいい気がする。可愛さはもしかすると、21歳の方が上かもしれないね。でも、今の方が自分の見た目のことが好きだな。25歳になると、だっさいメガネに適当なTシャツで、渋谷で油そばをすすれるようになるよ。気合を入れてハート形の穴の空いたワンピースを着なくても良くなるんだよ。髪は染めすぎて金に近くなった茶髪です。くくればわからないでしょってアイロンはやめました。たまにそんな格好の時に、えらい人に会っちゃったり、大切なタイミングが来たりして、ゲッと思うこともあるけど、自信満々だったら大丈夫だよ。

21歳のわたしに言ったら、月並みすぎて怒られそうな言葉だ。陳腐な言葉で自分のことを理解した気になるな!と吐き捨てられそうな言葉だ。自分ですらそんな言葉しかかけることができないのだから、他人から優しくされなくて当然の時期だった。そうやって、過去の孤独を解釈して慰めるぐらいには、大人になったわたしが、珍しく21歳の瞬間と同じ肉体を持ってしまうのが、「撮影される方」になった時だ。カメラはわたしを値踏みする。カメラマンが、ではなく、カメラそのものが。わたしはカメラの前に立つとただの素材になる。わたしが誰とか何だとか、カメラの前では全く関係なくなる。それは自分が弱くて脆い存在になる感覚で。切なく、不安定で。ロマンスだ。犠牲の多すぎる恋だ。病状だ。

だから、やめられ無いんだ。

俯瞰したふりができないぐらい、今を生きることに必死になる。それは「素晴らしい!」なんて言えないような暗闇を孕んだ感覚で。足元が震えて揺れ動く。どうしようもないような瞬間を、わたしも感じる時があるよ。21歳のわたしへ。