一緒に「見」たくなってしまった、と、滝内が打ち明けること、について考えている。
まことと江上は強い眼差しで、どちらかがどちらかを見つめることしかできない。こんなに愛し合っていても、二人は自分のフィルターでしか、お互いをとらえることができない。
一方滝内は、できるかわからないけれど、江上と共に同じ方向を見たいと思ったのだ。
粘り勝ち、とは、こういう女のことを言うと思う。わたしにはできないことだ。
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昨日、あら通しをした。通しをしたから分かったことがいくつかある。
まず、作中で何度か挟まれるラブシーンについて考えている。もっともっとやりたいことを精鋭化できるのではないかと。具体的な仕草や動作を洗い出している。きっとエロスとは具体に宿る。それは直接的な、触るとか触らないとかではない。男女の間に流れる空気感がいかに具体化しているかだ。
今、相手が何を望んでいるのか。次、相手が何をするのか。わたしはあなたに合わせたいという気持ち。きっとあなたもわたしに合わせてくれるという気持ち。お互いの呼吸。目を閉じる。指を這わせる。くちびるとくちびるを重ねる。
まあ、わたしは決して俳優同士をキスさせない演出家なので、実際は知らん男女のキスとかを舞台上で見なくて済むので、そういうのが無理な人にも『光の祭典』はおすすめである。
頭をエロスに戻そう。
江上、まことの服に手をかける。まことも江上の服に手をかける。手間取る。ぎこちない。その稚拙さも嬉しい。かわいい。君の首筋から君の匂いがする。あたたかい。やわらかな君の体、熱すぎる肉体、濡れすぎた瞳。どこか遠くから波の音がしている。あれは、しあわせの音だ。
この世の中で、生きていてよかったと思えるすべてのことをしよう。そしてカメラを回して。刻み付けて。もう二度と私が私を見失ったりしないように。
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しあわせな一瞬を舞台の上で顕然させる。
それは決して永遠には続かないひとときで、
かつて誰しもの胸に訪れたことのある喜びだ。
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演出をつけていて気がついたのだが、まことと江上のセックスはあくまで女性主体のものであることが大切なのだろう。だから二人のセックスには挿入は伴わないし、男性側の射精もともなわない。(結果としてともなう場合があったとしても)
一方、まことと麻生のセックスは男性主体のものだ。社会とのセックスでもある。というかむしろ、あれは社会とのセックスだろう。
「普通」であれない特別な女が、権力を持った男に溶かされ、「普通」の鋳型に注ぎ込まれてゆく。理解可能な範疇におさまることを求められる。女もそれはそれで良いのだと自分自身に言い聞かせる。いつのまにか、わたしはわたしじゃなくなっている。
本当のわたしって何?
今ふと、わたしあの短い間にイプセン『人形の家』をやろうとしていたのかと気がついた。わお。脚本家のわたしが投げてくる、すさまじいまでの要素の多さに、我ながら意欲的だなと思う。
演出家のわたしの仕事は、きっと、「いかにたくさん気がつけるか」だと思う。膨大な要素をいかに気がつき、体系化し、わかりやすく一つの線でつなぐか。
どこかで見た景色に、感じたことのない心の昂りを。観客へ届けるために。
ぜひ来てください。
少女都市 第8回公演
『 光の祭典 』
こまばアゴラ劇場にて
(駒場東大前駅から徒歩3分)
8/21水 14時・19時半
8/22木 19時半
8/23金 14時・19時半
8/24土 13時・18時
8/25日 13時・18時
8/26月 14時・19時半
8/27火 14時
・事前精算(振込)
http://ticket.corich.jp/apply/100663/
・当日精算
https://www.quartet-online.net/ticket/hikari2019
ほか詳細
それでは良き週末を!
よしもとみおりでした!