にんげんはかんがえる葭である

よしもとみおりのブログ

演劇の脚本とは化粧品でいうところの下地なのではないか

 

私の演劇作品は二年ほど「小説の方が向いているのではないか」と言われ続けてきたのだが、小説を書くと明確にわかる。そんなこと絶対無かろうもん。どう考えても脚本書く方がうまかっちゃん

 

こんばんは、よしもとみおりです。

深夜テンションに任せ、カピカピになりつつあるコンタクトを入れた両眼で、クソつまんないことを書いたことをお詫びしたい。

 

とりあえず私の頭に渦巻いているのは、小説を書いてる人はどうやって上手くかけるようになったんだ?と言う疑問である。

 

いや仮にも、仮にもやで? 賞に推薦してもらったり、支援に選んでもらったりしてる劇作家の書く小説じゃ無かろうもん。これは、レベル低かろうもん。この謎の語尾、本場の人が見たらぶちギレられそう、と思いつつ、なんじゃ…この程度の低いものは…と自分の小説を読むたびに思う。いや下手すぎでは。

 

では自分の戯曲(演劇の脚本)はそうじゃないのかと言われると、演劇は、その場にいる観客と作家と俳優の共犯関係からなるエロティックな空間芸術だから……とお茶を濁すのだが(劇場でお会いしましょう)

 

おそらく言えるのが、小説というものから逃げ回ったことによる圧倒的な経験値の低さが、この、ど下手くそな小説を生み出しているのではないかということだ。

 

思い出してみれば昔っから私はそういう人間で、「できないことは一生できるようになりませんのでわたくしはできるとこだけ伸ばします!」みたいなメンタルで受験を乗り切ってきた。

 

その回避メンタルがこの下手くそな小説を生み出していたのだ。

 

小説を読んだ後に、今度公演させていただくアイホールのアートディレクター(いわゆる芸術監督)からのコメントを読むと、

 

平成30年度 次世代応援企画break a leg 参加団体の選考結果について | AI・HALL(伊丹市立演劇ホール)

 

この芸術監督、節穴eyesなんじゃ?という疑念が湧くと思うが安心してほしい。私の小説が私の戯曲のレベルに追いついてないだけなんですううううう。

 

こんなに自分の書いた小説を落とすのは、つまりは、私が自分の戯曲に対して並々ならぬ自信とプライドを持っているということの証明に他ならない。だからこんなに言い訳がましく言葉を並べ立てるのだ。私の本領はそんなもんじゃないぞっと。それはあたかも三谷幸喜は映画の天才ではないが、確かに演劇の天才であるのと同じことなのだぞっと。ちゃっかり演劇の大家を引き合いに出しちゃう卑しさをご披露してしまうのだぞっと。

 

さて、

言葉を使い、ストーリーを見せる、という共通項を持つ、「脚本」と「小説」。

それはしばしば、よく似たものだと混同される。

けれど、本当にそうだろうか?

いや違う!(反語)と、わたしは言いたい。

 

なぜなら「脚本」というのは、「俳優」と「演出」と「観客」が加わることで初めて完成するからだ。

 

演劇は、その場にいる観客と作家と俳優の共犯関係からなるエロティックな空間芸術だ。これはなんの比喩でもない。ケータイ電話の音一つで世界が壊れるのは、4者が固唾を飲んで緊張を共有しているからだ。それはなんとお互いを信じあったエロティックな関係なのだろう、と思うがそのことは後々書くとして。

 

脚本は一種不完全なものだ。他者の介入を想定する。そしてその介入こそが、脚本を脚本足らしめる。介入は、決して揺らがぬように見えた脚本の印象すら変える。脚本は、他者の存在から成る、それそのものだけでは成立しえない、社会的な存在なのだ…!

 

はいは〜い、演劇の授業にゃ興味ねえ〜って方にここからは私が最近気がついた説をご紹介したい。

 

脚本というのは、わかりやすくいうと化粧品の下地だ。

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下地がないとファンデーションは崩れる。

そもそもきちんと乗らなかったりする。

しっかりと下地を仕込むことで、そのあと上に重ねるファンデもアイブロウもシャドウも発色し、持ちが良くなる。

優秀な下地は「え?このあとファンデいらなくない?」と思わせてくれる。

脚本もそうだ。優れた脚本はそれそのもので文学作品として成立しているかのように読み手に思わせる。

「え?ファンデしない方が?むしろ綺麗じゃ?これ一本で完璧じゃ?!」

と、思うのは、使用者の好き好きだ。

しかし、下地というものは、下地として生まれてきた以上、必ず、ファンデーションという他者の介入を想定しているのだ!

そして素晴らしい下地と素晴らしいファンデーションが組み合わさった時、素晴らしい顔面が生まれるのだ。

 

演劇もまたしかり、である。

 

この世の中の大半の人は、まるで演劇に興味がない方々ばかりだと思うので、化粧でたとえていくが、演劇界では、あえて下地を塗らなかったり、あえてファンデをしなかったり、あえてリップを入れなかったりするメイクが大流行して久しい。

そういったものが 美的のベストコスメにランクインしまくっている世界線だと思ってくれると嬉しい。

でもさ、メイクなんてさ、自己満足じゃん?

自分に一番合ったさ、自分が一番美しく見えるやり方をやればいいだけじゃん?

だからさ、素晴らしい下地、塗ってもいいじゃん?

下地塗ってるからこれはメイクじゃありません!って言わないでよ!

下地、塗らせてよ!

素晴らしい下地塗ってからファンデしたメイク、見せてよ!

わたし、そういう、しっかりした厚塗りで今っぽくないメイクが、好きなんだ〜〜〜!!!!

 

(後半にかけてメイクと下地をいい感じに演劇と脚本に変えてお読みください)

 

私の悪いところはすぐ主語を大きくしてしまうところなので、それはちょっとちょっとだぞ、と思った方、池袋のサイゼリア東京芸術劇場でも眺めながらお茶でもしばきましょう。

 

 

私の演劇は、化粧で言うところの下地にこだわりまくったメイクなので、「ファンデいらないんじゃない?」と、つまり、「小説の方が向いているのではないか」と言われ続けてきた。

 

が、私の下地は残念ながら下地以外では効果を発揮しない。透明のプライマー、イヴ・サンローラン、ラディアント タッチ ブラープライマー03番なのだ。

 

小説を書くと明確にわかる。私にはまだ、小説を書く技量が足りていない。けれど、戯曲にかけてきた9年間。それと同じ年数、小説と向き合えば、きっと小説も私に振り向いてくれると信じている。

 

文章は、書けば書くほど上手くなる。

 

 

よしもとみおり

 

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