にんげんはかんがえる葭である

よしもとみおりのブログ

0429:18時

なんだかつらい、とってもつらい、つらいこともないのにつらい。という気持ちが続いていた、先週から今週にかけて。だから半日、Twitterを絶ったら少し元気になった。新聞は読んだ。母に見てほしいと言われていた韓流ドラマも見た。それから日記を書いて、買ってから少しずつ読んでいる雑誌・&Premiumの6月号をまた少し読んだ。

人の生(き)の言葉とはちがう。なにか編集の入った、ひとつの作品として出来上がった、生じゃないものを浴びると、心が落ち着く。

けれど心が落ち着いた瞬間に、自分の中にある言葉が廻る。

「世界にはマカロンと、ハンドドリップコーヒーと輸入文房具しかないと思い込むこともできる」

林奕含という作家の言葉だ。彼女については小川たまかさんのこのツリーを見てほしい。この言葉に遭ったのはついさっきのことだ。けれどこの感覚、この恐怖を、わたしはずっと感じている。

美しいものだけを見るのは簡単なのだ。それは時には自分を励ますが、時には自分を本当に向き合わなくてはいけない問題から逃避させる。

さっき、落ち着いた、と、キーボードを叩いたら、「膣」という漢字がサジェストで出てきた。わたしは嫌な感じをおぼえた。でも、どうして嫌な気持ちになるんだろう?「胃」という漢字を見ても嫌な気持ちにならないのに?

それはきっと、「膣」というのが、わたしの体の中にある一部位のことなのに、まるで売り物みたいに、だれか他の人間がつけた名前のように思うからだ。わたしじゃない人に、わたしの体の一部を、名付けられたりしたくない。

思考は飛躍する。かつて、自分の在り方すらも他人に名付けられ、拘束された女たちのことを考える。そう遠くない過去について考える。

忘れたくない。忘れたくない、忘れたくない!美しいものだけ見てればいいんだよと、『人形の家』のノラのように管理された小さな小鳥でいたくない!

「ノラは家出した後どうなったか?」と魯迅は問いかけた。なんのたくわえもなく家をでることは路頭に迷う恐れがある、まずは経済力をつけろ、と彼は女学生たちに説いた。ルーカス・ナスの『人形の家 PART2』では、ノラは経済的には成功し、けれど失敗をおそれて帰ってきた。でも本当に?ノラは家を出て、幸せに暮らしたかもしれないよ。ノラが経済的に、あるいは精神的に失敗するなんてこと、それは男の人がそうなってほしいとノラに思っているだけなんじゃない?

夜はこれを見る。ロメロのゾンビを舞台化したイギリスの舞台。こうして書き記しておかないとまた見忘れて、人の生(き)の言葉に没頭してしまうから、書いておく。

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