にんげんはかんがえる葭である

よしもとみおりのブログ

ずっとずっとこのままなの?

しばらくnoteに浮気をしていた。noteにはnoteの楽しさがある。それは自分の言葉を公に出すような楽しさだ。しかし、はてなのように「私個人」をさらけ出すような気軽さは無いように思う。ということではてなに帰ってきた。わたしは今、個人的な話をしたい。

おかしなもんだ、自分の仕事に関することはすべてはてなにまとめているというのに。はてなの使い方のほうが、よっぽど「公」的なのに。ここで「私個人」の話をしたいなんて。

いま、とんでもなく文章が書けない。これはうつ状態だなと自分でもわかっている。かつてこういう時期があった。頭のキャパシティがいっぱい・いっぱいで、文章を書こうとすると頭が強制終了してしまう。特に、自分がこういうことを書きたいというテーマを確固として持っているものになると、余計に。

理由は簡単で、わたしが疲れているからだ。毎日何もしていないのに疲れている。と、自分を責めるのも鬱の時期のありがちな脳の行動だ。本当は毎日何もしていないわけじゃない。

ただ毎日、家事をして、ニュースを読み、Twitterを開いている。毎日毎日、あきれかえるような、恐ろしいような、そんなことばかりが政府によって起きている。

ねえ、もう無理だ。ずっとずっとこのままなの?何をしても内閣は辞職しないし。変だよ本当に。なんで人の命がかかってるときに汚職ができるの?それを擁護するアカウントがあんなに多いの?頭がおかしくなりそうだ。というかもうなっている。

クソ、クソ、クソ。

くそったれ、おかしい、もう嫌だ、平気な振りをしたくない、わたしは平気なんかじゃない。

ねえ、ずっとずっとこのままなの?

おかしいだろうが。

おかしいんだよ。

それでも和歌山県知事の言葉を読んで、この状況がおかしいって思う人がちゃんといるんだってことに少し救われた。

知らない人のnoteを読んで救われることもあった。

連帯って言葉は変な風に手垢がついて本来の意味はずいぶん失われてしまった。それでも「連帯」と名のついた行動がなぜ行われるのか、少しわかった。

それは絶望しないためである。世の中を変えるとか、そういう大きな目標より、何段階も前に在ること。

まず一人一人が絶望しないように、諦めないように、生きることを放棄したりしないように、「連帯」があるのだ。

本当はこういうことをTwitterに書きたいが頭がおかしくなったと思われるので書かない。でも、そう断定する誰かの頭がおかしくなってないのはなんでなんだろうね?