にんげんはかんがえる葭である

よしもとみおりのブログ

人生がときめく片づけの魔法

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家中のありとあらゆるところを片付けた。いよいよ自分の部屋だけになった。いや、片付け片付け言うてるわりに自分の部屋は片づけてなかったんかい、という感じだが、自分の部屋は片付いていた。インスタにドヤって載せるぐらいには片付いていた。だというのに自分の部屋の片づけが残っているというのはどういうことかというと、自分の雑然とした片付かないものを、別の部屋に置いていたのだ。昨日、それらをすべて、自分の部屋に持ってきた。

重い腰をあげて荷物を移動させたのは、先日、ようやっと手に取ったこんまり先生(あまりのリスペクトに勝手に先生付けで呼ぶ)の『人生がときめく片づけの魔法』という本に、このようなことが書いてあったからだ。「片付けているはずなのになぜかしっくりこない自分の部屋。ふとほかの人の部屋をのぞいたとき、そこに自分の荷物があるのに気が付いた…」このエピソードは「他人の片づけられていないところを指摘したくなるのは、自分の片付けがおろそかになっているサインだからです。」というナイフのような言葉と同じぐらい、自分の心に突き刺さった。

しかしながら、今わたしが使っている部屋の収納スペースには、自分のもの以外のものが多く入っており、それらを整頓し、ほかの場所にうつし、収納スペースを空けない限り、片付けようにも片付けられなかった、と言い訳もさせてほしい。

そんなこんなで振り返ってみると、わたしの家中の片付けは9月中旬より始まった。はじめは洗面台、次にリビング、その次にキッチン、というふうに少しずつ進めた。最初からこんまり先生の本を読んだわけではない。きっかけは、夏の公演の間、親せきの家に居候させてもらったことにさかのぼる。その家では叔母さんが専業主婦をしており、そのこまやかな家事の継続は、小さなころから共働き家庭だったわたしに雷に打たれたごとき衝撃を残したのだった。

夏の公演(『光の祭典』)をやっているとき、二ヶ月、親戚の家に居候していた。その家では叔母が専業主婦をやっており、あまりのパーフェクトな家事にわたしは腰を抜かした。こんなに素晴らしい稀有な存在が家にいてくれて、いてくれた上で東京で演劇やってる人いるの???そんなん100%うまくいくわ……うまくいかんのならそれは努力が足らんわ……。と言いながら夏の興行をやっていた。

そのこまやかさは、フルタイムでかつては我が家の大黒柱だった母親には、とてもじゃないができない種類のものだった。わたしはしみじみと誓った。実家に帰ったら叔母さんみたいに働くぞ、と。

幼い頃から母親が働くのが当たり前だった。母親に家に居てほしいと思ったことは一度もないし、そもそも家事をやるのが母親である必要はゼロであると思っている。ただ、ただである。家事を執り行う人間がいなければ、働く人は休まる時間がない。両親にゆっくりしてもらいたい。これも一つの親孝行かな、と思い、家事にせいを出している。

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帰阪してから最初の2週間で洗面台とリビングを片付け、掃除を習慣化した。両親に感謝される程度には、家はきれいになった。しかし、まだ何かしっくりこない。そんな時に2度目のきっかけと出会う。それはYouTubeのサジェストで出てきたミニマリストYouTuberの皆さんの動画だった。思えば無料のコンテンツから少しずつ片付けの魅力を教えてもらえたことのも続けられた理由に思う。最初は暇つぶしで動画を見ていた。おそらく見た動画が100を超えたあたりから、実践してみたくなった。まずは一つの引き出しから始めたら良い。という言葉の通りに、リビングにあったタンスの引き出しを整頓した。そこからは破竹の勢いである。たくさんのミニマリストYouTuber、ミニマリストブロガーの記事や動画を読み漁り、毎日片付けをした。必要ないものを捨て、そうしてできたスペースに必要なものを配置した。そうして昨日、両親の寝室を片付け、いよいよ残すは自分の部屋になった。

どっさりと置かれた段ボールたち。ここからが大変なのだ、ということは何となく自分でもわかっていた。使用期限が切れたものを捨てるのと、自分のものを捨てるのとでは、思い切りまでの助走が違う。いわんや整理をば。そう思うからこそこの2か月。先延ばし、先延ばしで来てしまったのだろう。こんまり先生いわく、片付けは自分と向き合う時間だという。

おそらく片付けられないものとは自分の過去なのだ。なぜなら、片付けられていないもの、例えば服、本、アクセサリー、雑貨、化粧品、家電、文房具、食品…。そのほとんどは、かつて自分が家に持ち込んだからこそ、ここに在るからだ。上記のものに足が生えて勝手に部屋の中に来た例はほとんどないだろう。ダイレクトメールや他人から勝手に送られてきたものですら、それを捨てることなく取って置いているのは自分だ。家の中にあるものにはすべて、自分が選んで持ち込んだ過去がまとわりついている。特に自分が買ったものとなれば、過去は一層色濃く影を落とす。いつ、どんな時、どんな風に、どんな気持ちでものを買ったのか、その時の自分の生活も、環境も、愛していた人も、夢中だったものも、わたしたちは覚えている。ひとつのものに、あまりに大きすぎる記憶が付随している。だから、片付けることは大変なのだ。片付けの時間は、自分の過去と向き合うのを余儀なくされる時間なのだ。

自分の過去と向き合うのはつらい。できればあんまり向き合いたくない。しかしながら、向き合わないことを続けること、見ないふりを続けること、それは自分を滞らせる、澱ませる。人間は日々より良くなるために生きている。そうわたしは信じている。信じているから物語を書く。信じているから演劇にする。わたしは人間とわたしを信じている。だから自分のために、何よりもわたしのために、向き合いたいと思うのだ。

と、ここまで書いて、我ながらなんでこんなに片付けにハマってるのか謎だったのだけど、「片付け=汚い部分を見ないふりをやめて対処する」ということだとすると、あら、それってあれじゃん、自分の書いてきた劇作に共通して流れるテーマじゃん……と気が付いた。自分が書いた作品のあまりの正論さに毎回ブーメランで殴られている。ご存知の通り、わたしはそんなに大した人間じゃないのだ。

今日、帰宅したら、いよいよ段ボールに取り掛かる。できたこともできなかったことも、等しく終わったこととして解釈する。ありがとうとものにお礼を言って捨てる。すでに段ボールのうちの一つであったウォーターサーバーは解約し、引き取りに来てもらうことになった。しばらくは東京で一人暮らしすることは無いと思うからだ。神戸の水は、そう悪くないように感じる。