ひとやま超えたぜ!泣き言日本シリーズ
今は2019年10月2日。
ずっと溜めてしまっていた文章がようやく書けた。とても短い文章だった。けれど自分の中でひと山越えなければ書けない文章だった。
どういうひと山かということも、言語化できた。
正直いままでラブストーリーを書く意義を見つけられてこなかったんですが、この個人がないがしろにされようとするクソクソクソな時代にラブという、極めて個人的な自由が保護されなければ得られない体験について語ることってとても意義があるんじゃないかなと思うようになったので、筆が進むよ。
— 葭本 未織 (@yoshimoto_miori) 2019年10月2日
意義を見つけてこられなかった、というのは、9年間社会的意義のために作品づくりをしてきたから、自分がいくら「うわ~!好き!見たい~!」と思っても、テーマとして社会への問題提起になるものをみつけられない限り、独立してラブストーリーを書くことができなかった、ということです
— 葭本 未織 (@yoshimoto_miori) 2019年10月2日
書けない時というのは、一概には言えないが、たぶんおそらく、自分の中で意義が見つけられないときなのだ。意義というと大げさだな。
なぜ書くのか。何を書くのか。
この2つのことだ。この2つががしっかりしていれば、言葉も構成も、自然と骨にまとわりついて肉になる。
結局のところわたしは演劇出身なので、演劇というのはずーっと「誰のためになるのか」を考えてきた芸術なので(だって観客がいないと成立しないからね)だからわたしも誰のためになるのかはっきりしないときは、唸っても泣いても喚いても、文章が文章にならなかったのである。
すっきりした。ひとやま超えた。
以下は2019年9月19日に書いた文章である。
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書けない、書けないと毎度言っている気がする。久しぶりの執筆期間はしんどすぎて倒れそうだ。
執筆は5月ぶり、完全新作は2月ぶり。懐かしいという感覚が今日、書けなさすぎて半泣きになったスターバックスで思い起こされたりした。
ああそうだったこんなに苦しいのだった。
わたしは向こう30年、こんなふうに苦しむのだろうか。いや苦しむのはいい。それはともかく、売り物にできるほど量産できるのだろうか、作品を。
確実に、作品を書きたい。その数は多いほうがいい。なぜならより多くの人の目に止まるように。だから増やしていきたい。満足のいく作品をたくさん。そうしたいのに。
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泣き言日本シリーズ、と名付けた文章のはじまりだった。
今の自分を見てみると、どうやら日本シリーズも終わったらしい。いよいよワールドカップがはじまるのかもしれない。ちょっと何を言ってるのかわからないが、ともあれしあわせな気分だ。道が見えてきた。
なぜ書くのか。何を書くのか。
そして、誰のためになるのか。
この3つを決めるのはわたしだ。わたしだけだ。自由に決めなさい。
TWITTERに記した文章で締める。
ようやく書く時の感覚思い出してきたんですけど、短い作品は好きな曲聞きながらSSの気分で書くのがいちばんええわな。
2時間ぐらいの長編戯曲(3万5000字ぐらい)になると、必要なのは新聞を読んだり、綿密に構成を考えることだったりするから、全然使ってる筋力が違うな。
あとものすごく丁寧に構成を考えられるときって情緒が安定してるときで、情緒が安定してるときは読み応えのあるフレーズは書けないから、何にも書きあがらない!悲しい!つらい!って時にできるだけその気持ちを利用して頭の中に思い付いたフレーズを書き留めておくのって大事だな。
テーマだけは少しちがって、毎日、新聞を読んだり、いろんな人と会ったり。世の中に目をむけたりしないと生まれてこないな。
世の中に目を向けよう。できるだけ。怖くてもそらさないで。