泣き言と少女都市について
この劇団はすべてわたしの病状の記録であり、病身からの復帰のために存在した。だからもう、やらなくてもいいかもしれないと思っている。
人生がおかしくなるような出来事があった。それは物語の中ではありふれたことだった。だけどそれがわたしの身に起きたとき、ああなんて、わたしは陳腐な感受性をもって生きてきたんだろうと思った。わたしが書いてきた物語の中のみんな、ごめんね。陳腐な出来事だなんて、馬鹿にしてごめんね。痛いねえ。引き裂かれてしまうぐらい、痛いねえ。みんなもこれぐらい辛かったんだね。
心配しないでほしいけれど、みんなが想像しているよりかは、酷いことは起きていない。
だけどわたしはあの日から、いつでも平気なふりをして生きている。ふりをしないと生きていけない。本当は1ミリも平気じゃないのに。
ここ最近はめでたいぐらいに晴れる日が続くせいか、頭の中がうるさい。だから文章を書かずにはいられない。
信頼している俳優たちと、自分の今いちばん届けたい作品を創っている。そんなわたしは、今けっこうしあわせなのに、涙があふれてたまらなかったりする。こぼれる涙をシーツでおさえながら、世の中の女性も皆、まあそんなものなのかなと考えたりもする。
ここ数日でわかったことは、愛はないということだ。だけどそれは世間一般の「愛」ではなく、わたしにとっての「愛」だ。
わたしにとって愛とは、すべてを与えることであり、すべてを奪われることだった。「与える」と「奪われる」は表裏一体で、意味を同じくしていた。
わたしたちがぴったりと1つになること。寸分の狂いもなく、わたしたちが溶け合って、1つの形になること。1ミリも漏れずに、その影がカチリと重なること。
つまり「わたし」も「あなた」も居なくなること。わたしたちが混ぜあって、何か新しいものになること。個人が無くなること。
それが愛だと思っていた。
だけどそんなものはこの世の中に存在しない。
決して個人は消せない。残念なことに。
それは希望でもあるけれど。
とにもかくにも、わたしが求めていた愛はこの世の中に存在しない。存在しないもんは存在しないから仕方がない。ユニコーンやチュパカブラ、ツチノコやネッシーにいくら会いたいと思っても会えないように。存在しないものにはそもそも会えない。
諦め。
今の気持ちを一言で表せばそうだ。
ようやく諦めがついてきた!
17才。永遠を誓われたあの日から、ずーっと信じ込んできた神様がいた。だけどそれはハリボテだった。
それを9年をかけて知ったのだ。9年をかけてようやくわかったのだ。
長かった。だけど悪くないと思う。だっていま知れたんだもん。
わたしは一つ、わたしの人生に「。」をつけた。
諦めは、決して後ろ向きな放棄ではなく、一つのピリオドであると考えてみる。
この世の中に「愛」はない。でも信じることはきっと「在る」よね。
少女都市は終わる。
でもわたしは生き続ける。