にんげんはかんがえる葭である

よしもとみおりのブログ

この世でたった一人のわたしのありふれた苦しみ

わくわくするようなお話を書きたい。
 
6月に帰京してからどうも自分の家じゃないような気がする東京の家は汚さのマックスを迎えており、昔、母が「ゴミ箱に家賃払ってんじゃないよ?!」と怒ってたのを思い出すような汚さである。安心してほしいけど、今は家賃ぐらいは自分で払ってます。
 
昨日、とりあえず玄関だけ・・・と片付けたせいか、昨日今日と玄関でものを書いている。
 
わたしはちゃんとした人間であらなきゃ、みたいな意識があって、
女友達の似たような悩みには
「でも自分のことを5歳の男の子だと思うと、ちゃんとしてなくてい〜か〜みたいな気持ちにならない?」
と日和ったことを言えるのに、自分にはけして言えない。
 
一足飛びにはいかないが、確実に進みたいと思っている。
だけど、これ以上ないって喜びもすぐに慣れて、いつもどおりのことになっちゃうの。
 
ここは退屈むかえに来て。
 
そう言う相手は、自分しかいない。
そういうこともわかっている。
諦めではなくこれは真理だ。
自分のこと、自分で画策しなきゃ、誰もどこかに連れてってくれるなんてことないよ。
 
と、なにもかも物事を棚に上げてわたしは言葉を書くけれど、それはわたしが自分のできていることを書いてるんじゃなくて、なりたい自分を書いているから。
 
胸に詰まったかなしみとか
つまんないことに心酔したりとか
そんなありふれた苦しみは
みんな、みんなのことで精いっぱいだから。
気にしたくないでしょ。
他の人の気持ちのことなんて気にしたくないでしょ。
想像したくないでしょ。
おもんぱかりたくないでしょ。
 
だから物語を書く。
キャラクターをつくる。
わたしの言葉に、他人の言葉のふりを、させる。
 
だけど最近のわたしは上手に物語を書けない。
言葉しか書けない。
 
「人生落ありゃ苦もあるさ」
誤字に気が付いて、わたしよりもわたしのことをわかって「くれて」いるパソコンのことをいとおしくなる。
 
お姫様は「誰かに何かをしてもらう事」が「良い」とされるから、いつもわたしも「何をしてもらったか」ばかり宝石箱にいれてしまう。
 
プリンセスへ
人間の事信じてはいけないって、つまり
信奉してはいけないってこと
信用はしてもいいし信頼もしてもいいよ
 
本当は、
 
君が「言ってくれた」ことじゃなくて、
わたしが「聞いた」ことを大切に。
 
と思っているし、そのようなことを書いている。
 
わたしの考えるわたしの読者は臆病で悪意のない少女だ。
つまらないことを言われたくないから先に言うけれど、年齢は関係ない。
世の中におそれをかんじている自分の輪郭もあやふやな少女だ。
それはわたしの中に住んでいる。
「ぼく」と「あたし」を使い分けながら生きている。
 
ぼくはきちんと向かい合って物語を書くことにおそれをかんじている。
向かい合うというのはすごく幼いことで
単純に自分のパソコンで、Wordで、物語を書く事だ。
だけど書けない。
 
あたしのパソコンはあたしの家族みたいで恋人みたい。
上京したときからずっと一緒にいるんだから、本当に家族で、本当は恋人以上だ。
だから身構えて、震えてしまう。
あとくされが無い、パソコンレンタルからやってきた、
もしくはネットカフェであてがわれた、
時間内いくらの借り物の機械の前でしかほんとの自分を出せない。
 
7年目の慣れ親しんだ機械の前で、いいかっこをしたくなるあたしは、
ママじゃない人をママって呼ぶ男みたいで、
今日会った人と寝る女みたい。
 
あたしの頭の中に出てくる文字というのはうるさいぐらいにいきいきしているのに、
あたしはあたしの内面を嫌悪しているのでそのままで表に出すことはけしてできない。
 
だから他人の言葉というふりをする。
そのためにキャラクターをつくる。
でもときどき、その人たちの口からこぼれおちるのは、本当に他人の言葉の時もある。
わたしが思ってもいないことを書いたりする。
 
書くと真実として実現化してわたしのもとへやってくる。
これは本当だ。
気が付かない間にいろんなことを引き寄せて、書いたことが人生になる。
悪いこともあるけれど、圧倒的に良い事の方が多い。
思いもよらないことがやってくる。  
意識して書いてもやってはこない。
無意識が書かせた設定や台詞が、はねかえって、やってくる。
物語は、わたしから、わたしへの、時をかけたプレゼントだ。
そうしてわたしはいつも、過去のわたしからの贈り物で立ち直ってきた。
だけどそのプレゼントがすてきであればあるほど、
ぼくのおそれは大きくなって、こう叫ぶ。
 
稚拙な人間になりたくない。
だから完璧になるまで、なんにも発信したくない!
 
わたしは計画性のない人間だから
完璧な計画のとおりに進む物語を書く事に
現実では得られないドグマの達成を感じるんだろう。
 
こうして「わたし」のときは常識のある人間ぶれるのに、「ぼく」はしんどい。
ぼくはぼくの理想の「わたし」になれなくてしんどい。
 
ぼく、という本当はけしてつかわぬ一人称をつかって、またわたしは、わたしの話をすることから逃げる。
 
演劇が好きなのは、舞台の幕が開いた瞬間、わたしの手から離れるからだ。
 
ほんとに?
本当は人間を思う通りに動かせることに快楽を覚えるからでは?
 
胸に苦しいものがあるの。
好きな服をえらぶのがめちゃくちゃにむつかしい。
どの服を着れば誰からも攻撃されないの?
髪が長ければ男に媚びていると言われ、短ければフェミニストと扱われる世界に住んでいて、自己肯定感なんてどう育てりゃええのかわからんよ。
ぼくはぼくの過去とがんじがらめになっちゃいそう。  
 
 
自分の事をありきたりな言葉で語りたくない。
だけどわたしの不安定さはどこにでもあるありきたりなものだ。
わたしはわたしのことを話してもつまらないと思っている。
だからもっとおもしろいふうにつくりかえれないかといつも思う。
 
「でも自分のことを5歳の男の子だと思うと、ちゃんとしてなくてい〜か〜みたいな気持ちにならない?」
と日和ったことを言ったふりをして、
この時のたとえは必ず男の子でなければならない、と考えている。
5歳の女の子であるとき、ちゃんとしなかったことを許されなかったからこそ、今のわたしがいるのだから。
 
立ち直るのは個人の心の問題ではなく、
個人が「どの立ち位置に着いたか」、だと思う。
だからわたしは、個人の環境が変わることを書く。
物語の中で、
そして、画面の前で、
泣いたり怒ったりしながら。
 
この世でたった一人のわたしのありふれた苦しみ。