にんげんはかんがえる葭である

よしもとみおりのブログ

信じる力を忘れない

私は長い間、「写実」だけが自分を担保してくれると考えていた。

私にとって写実とは、すなわち、徹底した「主観の排除」を意味した。

私は、私の「感性」を、つまり、私の「感じる」・「心」を、何一つ信用していなかった。

 

それは、私が小さい頃から、誰かに無制限に理解されるということを実感したことがなかったからだ。むしろ、世界はずっと私にとって、私を理解しない人たちで構成されていた。そして不幸なことに、私はそのことを、自分のせいだと感じていた。理解されないのは自分が悪いのだと思っていた。だって、ブスで、メガネで、太っていて、鈍臭くて、何か秀でたところなんて何一つない、そんな人間を、誰が理解してあげようと思うんだろう。

 

そんな風に自分のことを見つめながらも、私は、ずっと周りから理解されたかった。「君は生きてるだけで二重丸なんだよ」と誰かに言って欲しかった。けれど、それは、生まれつき、美しかったり、可愛かったり、勉強ができたり、絵が上手かったり、「何かに秀でた人間だけ」が「得られる」権利だった。

私のような「そうじゃない」人間は、どうすればいいのか。どうすれば、人から理解されるのか。どうすれば、お前なんかいらないと言われないのか。

 

考えた末に出てきた「答え」は、「型」だった。

それは、わたしが9才から「演劇」を学んで、「わかった」ことだった。

 

私がいた演劇環境に置いて、何よりも大事なのは、楽しくなくても楽しい「ふり」をすることだった。

そうすればお客さんは、今、この人は、楽しいんだと思い込んでくれる。そうして、喜んでくれる。観客が喜べば、演出家も私のことを怒鳴らない。それどころか、褒めてくれる。演出家に褒められれば、チームメイトに大切にされる。邪険にされることもない。みんなが私のこと、認めてくれる、理解してくれる。

今は、まだ下手くそだから、みんなに大切にされないだけ。私が努力して、楽しくなくても楽しいふりをできるようになれば、きっとみんなが私のことを、愛してくれる。

ようやくわかった、人間も演劇も一緒。「正解の型」、それをなぞれば、何もかもが上手くいく。私が、実際に、何を考えているかなんて、ちっとも大事じゃなくて、「どんな風に見えているか」、それだけが大切なことなんだ!

 

私は、自分の主観を、殺すよう、勤めた。そのうち、主観というものは消え去った。好きじゃなくても好きな「ふり」をする。と、人は喜んでくれる。悲しくても、悲しくない「ふり」をする。と、人は怒らない。怒ってても怒ってない「ふり」をする。と、目の前の人間は納得してくれる。

努力しなくてはならない。私のような「そうじゃない人間」は、一生をかけて、「理解されるための能力」を得なければならない。

 

そうして行き着いたのが、「写実」だった。

写実は「完璧な客観」がもたらす、「誰からも理解される」「創造物」だ。

おかしい。創造物に主観が入らないはずがない。創造物は、主観を退けようとしても退けることのできない、最たるものだ。

けれど、なぜか、創造された「写実」は理解される。

それは、写実自体が、現実という「手本」を徹底的に「模倣した」「型」によって構成されているからだ。現実という我々にもっとも近しいもののコピーだから、理解されるのだ。

やっぱり。正解というのは、型なのだ。だって、それさえなぞれば、どんな人にも理解してもらえるんだから。この世の中で、理解されることが、一番大切なことなんだから。だって、努力して、努力して、鍛錬すれば、「型」はきっと身につく。「正解」が手に入る。そうすればきっともう孤独じゃない。私が今、孤独を感じているのは、私の理解される能力が足りないからだ。間違った「感じ方」なのだ。

なんの努力もせずに理解されたいなんて、それは「生まれつき人よりも優れた所のある人間」だけが許される感情だ。お前はそうじゃない。理解されるためには、理解される能力を、手に入れなければならないのだ。

 

私の一生とは、理解されるためにあり、理解される能力を身につけるためにある。

 

そう思っていた私は、「演劇を書く」ことに出会った。出会って、安堵した。なぜなら、ここにきてようやく、「型」に添うことができたからだ。

「写実」が理解されるということはわかっていても、私はそれを演技に反映できなかった。結局人間関係にも反映できなかったかもしれない。体を通して「ふり」をすることは、私には向いていなかった。何度やっても、正解がわからなかった。

けれど、「演劇を書く」ことは違う。手に取るように正解がわかる。何をすれば、人に理解されるのか。何をすれば、人よりも秀でた作品を書けるのか。どうすれば人に愛され、尊敬され、大切にされ、才能を妬まれるのか。全てが息するようにわかる。何もかも明瞭で、気分がいい。

 

「演劇を書く」ことには「正解の型」がある。今からいうことは、2000年前のギリシャ時代から積み重ねられ、現代に入って、ようやく明瞭となった、人類の叡智だ。これを完璧にたどれば良い。

「秘密」を暴き、「陰謀」を渦巻かせ、「誤解」を生じさせ、「犠牲」を描く。しかし必ず最後には、「愛」によって「救済」が行われ、「善」は「勝ち」、「信じる」ことは「救い」となる。全ての出来事に「意味」をつけ、一切のものを「原因」、あるいはその「結果」とする。そして、ありとあらゆる「出来事」と「出来事」を、「因果」によって繋ぐ。

「演劇」は本来の「写実」とは、程遠い。今あげた連なりは、絶対に、現実では起こらない。にも関わらず、多くの観客は、それを「本来そうあるべきこと」として望み、受け入れる。

「演劇」を見ている時、「本当の現実」は観客の目から滑り落ち、「模倣」されながらも「理想化」された世界を彼らは見たいと望む。

 

私はその望み通りに、「正解」を描く。すると、私の創造物は理解される。私の「型」のなぞり方は完璧で、創造物は、私が思った以上に、理解される。「私の創造物」とはつまり、「私自身」である。

だから私は、その瞬間ようやく、人から手放しで理解されるという感覚を知った。涙が出るほど嬉しかった。

 

私が描く、理想化された現実の模倣は、何層ものその虚構で創られた嘘の世界で、その小さな箱庭の中では、人間は必ず良い方に「変化」し、「困難」は「必ず」解決される。

本当の世界では、そんなことは起きはしないのに。

 

初めての「理解」に、私は酔った。そうして自分は、「写実」が書けるのだと夢想した。常人は書けるはずのない「客観」が描ける自分が大好きだった。徹底的に「型」を守り、「女性ならではの」なんて言われないように闘った。だって私の作品は、徹底した「型」に沿って書いている。それは「誰しも」が思わず涙するに決まっている「型」なのだ。2000年前のギリシャ時代から積み重ねられ、今ようやく明瞭となった、人類の叡智なのだ。それを、たかだか地球に半分しかいない性の人間しか理解できないものだと断言するなんて、絶対に許せない。私は、「大きな歴史」の中の、「一人」なんだ!

 

私が、私の自信とするものは、そういった、過去の堆積物によるものだった。決して、自分自身ではなかった。むしろ、そうであることに誇りを持っていた。

私は、私のことは信じていない。私の感性など、存在しない。すごいでしょう、普通の人はとらわれちゃうでしょう、自分ってものに。でも私は、そこから解き放たれているの!ずっとずっと自由なの!

 

と、言いながら、私は、私自身が、何を感じているのか、ずっと、わからなかった。

 

 

「君が何を考えているのか、それが一番聞きたかったんだけど。」

2017年、夏のことだ。私は、そう言われて、大学のスカラシップに落ちた。

このスカラシップは、今年から始まったもので、学生の自主制作を応援するという企画だった。私は受かるとばかり思っていた。提出した私の脚本は、「完璧」な作品だったからだ。徹底して「型」をなぞり、誰一人として、ケチのつけられない「完璧」なストーリーにし、すでに外部で一定の評価ももらえていた。

けれど、面接でこう聞かれたとき、私は答えることができなかった。

「あなたの作品を演劇でやる意味ってなに?」

何を言ってるんだろう?と、瞬時に思った。だって、そんな「理由」、必要ある?「わたし」が演劇をやる理由が、「誰に」必要とされてるの?

だって、この世の中には、生まれながらにして「理解をしてもらえる人間」と、「それに値しない人間」がいるんだよ?私はその後者で。そこから這い上がるために、努力して努力して、「理解されるための型」を身につけたんだよ?それを最もきちんと出せるものが、「演劇を書くこと」だったの。

とは言っても、簡単に、打算的に身につけたことじゃないんだよ。演劇はちっとも自分の言うこと聞いてくれないし、演出家はいつも怒鳴るし、チームメイトには邪険にされるし、いつだって踏みにじられて、苦しくて。でも、そこでわかったことが、「型」をなぞればいいってことだったの。手に負えない、私を傷つけてばかりの演劇が、そして他人が、唯一大人しくなってくれるのが、「型」だったの。

優れた演劇なんてものは、優れたパターンに過ぎない。そして、人の心というものも、型さえなぞれば簡単に震える、一種のパターンにすぎないの。

だってそうでしょう?目に見えない本当の感情なんて「誰にも」求められてないよ。 誰もただの「私」なんか見たくないし、「私」自身はいらないし、「そのままの私」なんて選ばれないよ。あなたたちだって、選ばないでしょう?演劇も他人も、私を隷属させるものだって、私、人生通して、学んできたよ。「型」に添わないと、私は人間として扱われないって。それなのに、なぜ、目の前のこの人たちは、あたかも「演劇」が、「他人」が、私と対等のもののように語るの?どうして「あなたの作品を演劇でやる意味ってなに?」なんて、聞くの?演劇に従事する者は皆、演劇の奴隷に過ぎないんだよ!

 

と、言うことを、10秒ほどで考え、私は、「私がこの作品を演劇でやる意味はありません」と答えた。そして、落ちた。

 

数日後届いた落選の通知に、私は今まで「書く」ことで得てきた、ずっとずっと焦がれようやく手に入った他者からの「理解」が、全て失われたかのように感じられた。一週間、泣き続けた。

「君が何を考えているのか、それが一番聞きたかった。」

という言葉が、離れなかった。

 

 

 

1ヶ月後、いい加減、泣き止んだ。そして、書こうと思った。

生まれて初めて、「自分が何を感じているか」を求められ、それを明瞭にできなかったために、逃してしまったチャンスを、どうにかして、自分の中で、意義のある「出来事」にしたかった。

 

 そうしてできたのが、『向井坂良い子と長い呪いの歌』だ。

初めて、徹底的に、自分のことだけを書いた。登場人物全員が私だ。私しか出てこない。

書くことは辛かった。自分自身のことを書くと言うのは、通常の物語の書き方とは違う。何も解決ができていないから、どんなルートで変化し、救われるのか、今までの「型」には、はめ込めない。予想以上に手間取ってしまい、出演者には迷惑をかけた。

演出することも辛かった。自分自身から生まれた登場人物のキャラクター像は、今までのように簡単には見えてこない。自分の中で、探しながら、オーダーした。

 

なんとか千秋楽を迎えられたのは、出演者と、スタッフのおかげだと、心底思う。本当にありがとう。

 

『向井坂良い子と長い呪いの歌』の観客の反応の一部は、今までに無いものだった。今まで、「秀逸すぎて逆にその巧みさにしか目がいかない」と、欠点を指摘される時も褒められながらばかりきたので、シンプルに「わからない」と言われることが新鮮だった。そして、これは自分でも驚いているのだが、そういった感想に対して、「そうか」とシンプルに受け止められている。それはおそらく、「この物語は自分のことを書いていて、だからきっと本当のところは、誰にもわからないだろう」と言う諦念と、「わからないと言うことはネガティヴなことだけじゃ無いのかもしれない」と言う気づきからきている。この二つが、全く一つの鏡のように、わたしの胸の中にある。

先日、私がお世話になっている、アーキタンツサポートプログラムという助成の運営の方がおっしゃっていたことを、引用したい。

「今その人が感じているわからないと言う感情は、何年経っても変わらないかもしれない。けれど何十年も経って、ある日いきなり、わかるかもしれない。それは、その人だけが心に持ち続けて、私には届かないかもしれない。しかし、そう言う日が、いつか来るかもしれない。そんな未来を信じて、作品を創る。」

 

 理解すると言うことはとても難しいことで、私自身が夏から冬へ、半年をかけて、ようやく自分を理解するための第一歩を踏み出せたぐらいだから、他者への理解というのは、きっととてつもなく遥かなことなのだと思う。

だから、私が「理解されない」と嘆いていたことは、なんの不思議でもなく、当たり前のことだったのかもしれない。もしかするとみんな、自分自身のことは理解されたいけれど、他者を理解できず、苦しんでいるのかもしれない。

けれど私は、たとえ、そうだったとしても、私の感じた苦しみを矮小化したくはない。痛みは痛みとして、目をそらさずに理解したい。それは、自分の痛みを痛みだと理解できた時に、他者への理解の第一歩も始まるのかもしれない、と、思うからだ。

 

今、私は、これからきっと、今まで自分が書けなかったような全く新しい話が書けると確信している。

 

あらためて、『向井坂良い子と長い呪いの歌』に関わってくださった全ての皆さま、本当にありがとうございました。

 

2018.03.7 葭本未織