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にんげんはかんがえる葭である

よしもとみおりのブログ

乱暴と待機:物語とリンクした画面づくり

映画

古びた平屋の日本家屋が舞台の作品だ。元々芝居だった作品なので、場所移動もほとんどなく、ストーリーのほとんどがひとつの家のなかで展開する。

日本家屋で映画を撮っている多くの作品と同じように、「乱暴と待機」も画面内画面が多用されている。

 

特に印象的だった使用シーンは、「覗きのシーン」である。

 「乱暴と待機」では主人公は兄に天井裏から覗かれている。兄は毎回、天井板の一部をはずし、小さなフレームの中から主人公を覗く。カメラは兄の視点ショットで、画面の左右もしくは上下に天井板のフレームがつく。観客は、物語上の兄と同じように、(いつもよりも)小さな画面から主人公を覗く。

 

このシチュエーションのシーンは何回かあるのだが、インパクトが非常に大きい。

そのため、「覗きのシーン」以外のシーンで画面内画面が使われた際にも、どうしても、またも自分がどこかに隠れて彼女を覗いているような感覚になるのだ。

引き戸と引き戸のあいだから…二段ベッドのハシゴのあいだから…。

 

最初に、この物語はほとんどが一つの家の中で完結すると伝えた。舞台が一つの家、しかも平屋となるとどうしても画面に閉塞感でてしまう。そういった際、画面内画面を使うと、ストーリー内での場所の移動がなくとも、奥行きのある画面ができる。監督やカメラマンは、閉塞感打破のために画面内画面を多用したのだろう。

だが、それだけではないと思うのだ。

乱暴と待機」の画面内画面の使用は、画面の安定を目的とするだけでなく、その使用が物語とリンクすることで、「覗きのシーンの画面内画面」が他の画面内画面の見方をも変えてしまう効果をもっていたように感じる。

 

乱暴と待機」の画面内画面から学んだのは、 こういった「物語とリンクした画面」「観客の見方を変える画面」をつくることを、画面作りの際は考えなくてはいけないということだ。

 

 

以下はネタバレ

・「乱暴と待機」ではなく、「待機」の物語で、もっと言うなら「純愛物語」だった。あきらかにタイトル負けしている。もしこの作品が「純愛物語」というタイトルだったら、わたしはこんなにがっかりしなかったかもしれない。「乱暴と待機」はあまりにもセンセーショナルなタイトルだった。

・「腑抜けども悲しみの愛をみせろ」のリアルさ、そして壮大なえげつさなに比べると、今回は明らかにトーンダウンしていた。4人のキャラクターは確かに、自分の身の回りで見たことがあるようなリアルさを持っているが、それは現実のとるに足らない痴話喧嘩の域を出ていなかった。所帯くさかった。前回感じたパワーはあまり感じなかった。

・出演者四人はみな好演だったし、やっぱり小池栄子は迫力が合ってよかった。

・タイトルというものは、ストーリー・シチュエーション・キャラクターのいずれかを指すワードないしはセンテンスをつけるものだが、あんまりにインパクトのあるタイトルをつけるのもなんだな…と思った。